心が叫びたがってるんだ。バカヤローッて

 『あの花の名前を僕達はまだ知らない。』、通称『あの花』はわりに好きなアニメだった。

 引きこもりの男の子(高校生)・じんたんが主人公で、ぐうたらな生活を送る彼のもとにある日、幼なじみで既に死んでしまった女の子・めんまが現れる。彼女の姿を見られるのは、じんたんだけ。めんまは、かつて「超平和バスターズ」と名付けた幼なじみメンバーの集合を望み、じんたんはめんまの夢を叶えるために家を出て仲間集めを始める。

 そうして久しぶりに会うかつての仲間は、それぞれがそれぞれの方向に人生が屈折してしまっている。ある者は出会い系というか売春まがいのことをしているし、ある者はじんたんとは対照的に家に籠るのではなくて日本の外に籠るかのようにして世界を旅行しているし(いわゆる外籠りというやつ?)、あるものは、女装しながら夜の街を疾走していたりする。

 彼らがなぜ、このように屈折してしまったのか。そこには、めんまの死があった。その昔、山の中にある超平和バスターズの秘密基地でのこと、じんたんのふとした言葉が切っ掛けで、めんまはその場所を飛び出してしまう。飛び出しためんまをみんなで探すが見つからない。森に向かって名前を読んでも返事はない。めんまは川で死んでしまっていたのだった。不慮の事故というものだったけど、しかし、それぞれがそれぞれにめんまの死に責任を感じ、その自責の念は今に至るまで変わらず自分を責め続ける。彼らが屈折してしまったのは、めんまの死に説明や解釈を与えることができないままに大きくなってしまったからだった。つまり、トラウマを抱えてしまっていたのだった。

 ちなみに、女装をしながら夜の街を疾走するのはゆきあつというイケメンで、その女装姿はめんまの格好そのもの。失われてしまっためんまを身を以て再現し、街に出る。このトラウマとにかく闇が深いと思うのだった。が、他方でイケメンの女装姿というものに、ゾッとしつつもどこか胸を掴まれた女子は多かったようで「ゆきあつ様〜ッ」とわたしの友達は両手を胸の前で組んで悶絶していた。

 話しを戻す。

 めんまの死についてトラウマ化してしまった彼らを救うためにめんまは現世に幽霊となって現れたのだった。伝えたいことがある。めんまはそのように言ってこの世に現れ、その伝えたいことというのはつまり、彼女の死について「誰も悪くない」ということだった。

 では、どのようにしてめんまは彼らのトラウマを解消するのかというと、それはとりもなおさず「超平和バスターズ」の再集合なのであった。

 つまりこの話し、簡単に言ってしまうと「トラウマを抱えた彼らが、トラウマを再現することによりそれを客体化し、トラウマから脱する」という話しなのである。

 なかなか良いでないのとわたしは思うのです。なかなか世代の空気とらえているわねんと。

 つまり、バブル崩壊で起こった諸々のことを理解できないままに、しかし失われた10年とも20年とも称される何かが失われて暗い時代が始まったという感覚を肌で感じ取りながら大きくなっていった世代のリアリティーがあると思うのだ。ちらりと後ろを振り返ればなんとなしに「いい時代」の面影があり、しかし、それは残滓に過ぎず前を向けば荒野、みたいな感じ。

 ただ、ラストシーンはちょっとわたしとしてはいただけなくて、超平和バスターズのメンバーが最集合した後、彼らでめんまが死んでしまった「あの日」について語り合うのだけど、その最後の最後、「俺もめんまが好きだー」とか「わたしもめんまが好きだー」とか言って、みんなでカミングアウトして互いの傷を確かめ合って終わるのだ。

 ん〜、ちょっと都合がいい気がしてしまうのです。いいんだけど、そうして客体化してトラウマを乗り越えるのはいいんだけど、すこし引っかかるというか…

 つまり、もう少し闇は深いんでないの?と思うのです。めんまの死を切っ掛けに人生がそれぞれの方向に屈折していった彼らは、なんとなしに昔みたいにまた仲良くなっているんだけど、それで互いの傷を見せ合って、さぁ最スタートを切ろうというのって、なんというか、こんなこと言うと意地悪な感じがして厭なんだけど、そうしたある種仲間内だけで通じるような密でハイコンテクストなコミュニケーションでもって救われるのって、きっとその瞬間だけだし彼らだけだし、彼らが秘密基地からまた実生活の中に戻ったときにはそこまで機能しないのではないかと思ったりもするし、また、みんな仲良くやっていればそれでいいんだけど、だけど仲良くできない人は置いてけぼりくらうわけかぁと思ったりもして。

 わたしは合唱コンクールがとにかく嫌いで、歌を歌うことは好きだけど、みんなで一緒に音程とリズムを合わせて歌うのってちょっと無理だった。一緒になにかをするということにアレルギーみたいなことを感じていた。そして、合唱コンクールってクラスでもなかなかイケている女の子たちが主導権を握ることってままあって、彼女たちはコンクールが終わったあとにきまって泣くんですよね。わたしは、その涙が好きではなかった…、とまでは思ってはいないんだけど、ちょっと苦手だなぁと思っていて、こうしたネガティブなことがぶわっと溢れ出してしまったのだった、「あの花」のラストシーンを観て。

 この感じ、わかっていただけるだろうか。基本的には「あの花」大好きだし、ラストに関しても全否定しているわけではないんだけど、どこか疎外感があったりもする感じ。


 とまあ、ここまでが「あの花」の話しであり、ここからは「ここ叫」の話し。

 「ここ叫」と書いて「ここさけ」と読み、もといこれは「心が叫びたがってるんだ。」の略。今、映画館でやっている「あの花」の製作陣が手がけた最新アニメ映画です。

 今度はどんなのを観せてくれるんだろーと映画館に言ってきたのはちょっと前のこと。わたしの感想は「かれら(登場人物)は心が叫びたがっているのかもしれないけど、それを観ているわたしのこころは全く叫びたくはなりませんでした」というものだった。ちょっと残念だった。だって、観終わってすぐに「ウオォー!!」って叫びだしてしまうくらいのものを期待していたから。

 なにがマズかったのかなぁ。

 この話しもまた、トラウマを抱えた主人公が、そのトラウマを再現することによってトラウマを乗り越えるってつくりになっているのだが、おそらくはそのトラウマの設定が甘いところにあるのだと思う。これはひとつめのポイント。

 ことばを口に出すことができないもどかしさとか、ことばを自ら禁じることってとてもあると思う。

 例えば、わたしは小さいころにこの主人公のように饒舌でしゃべりにしゃべりまくっていたんだけど、ちょっと調子づいてしまって口にした一言で変な感じになってしまったことがあった。そして、その変な感じは今でもしっかり覚えている。

 お酒を飲んでしまって、饒舌になってしまったときなど、その記憶が思い起こされて口をつぐまねばと思うこともある。たぶん、主人公の抱えるトラウマを観客の実生活の中に落とし込むとこんなくらいのことなのかもしれない。でも、これって結構あるあるだ。

 で、トラウマの設定の甘さについて。

 至極簡単に言ってしまえば、主人公はことばをマシンガンのように繰り出す。つまり、テクストメッセージを送りまくるのだ。

「こころが叫びたがってる」というより「口でしゃべりたがってる」といった方が良さそうなくらい、こころは文字ををつかって叫んでいるじゃんと思うのでした。

 だから、ちょっとノレなかった。

 でもでも、LINEとかでメッセージを送りまくる口べたの人というのは確かにいるのであって、だからそれはそれで現実味があるのだけど、ことこれは映画ですので、そういう子を描きたかったらその描き方をすればよいのであって、今回のテーマと少し違うんだろうと思うのだった。

 そして、諸々割愛するけども、最大の乗れなかったポイントは主人公の彼女はこころが叫びたがっているという欲求を抱えているのではなくて、みんなと仲良くしたいという欲求を抱えているように思えたところ。

 わたしは、もっと根源的な声にならないような気持ちを内に秘め、それがぐつぐつと煮えたぎりどうしようもなくなったときに溢れ出してしまう音が叫びだと思うので、仲良くするのがいいのであれば、べつに叫ばずともよしと思ってしまったのだった。

 それが端的に現れている場面としては、後半の主人公が心寄せる男の子に悪態をつくところ。言いたいことが沢山あると言って、それは決して良いことばかりではないという主人公に、全てををぶちまけろという男の子。そしてぶちまけることばの少ないこと少ないこと。もっともっと溜まっているものがあったはずでは?と私は首を傾げるばかり。言われてすぐに膝から崩れてしまうようなことだったり、主人公の人格を疑うようなひどいことを言ってくれるのだと思っていたので残念だったし、この場面でわたしは、所詮この主人公はこの程度のことしかこころに溜まっているものがのであるなと思ってしまったのだった。

 映画の出たしはとても小気味良くて、さまざまな事情を一瞬で説明してしまう描写とカット割りにとても胸弾んだのであったが、よかったのはそれくらいで、言わばルサンチマンが炸裂して爆発する映画とばかり思っていたが、つまり、アニメ版「桐島、部活やめるってよ」並のものがあると思っていたのだったが、そうはならなかったみたい。

 で、もやもやだけが残った。わたしもなにか叫びたいものがあって、その叫びたいものに叫ぶべきことばを与えてくれると思っていたから。


 と、ここまでは、「ここ叫」の話しでありまして、ここからは「書を捨てよ 街に出よう」の話しです。

 東京国際映画祭が始まり、今年は寺山修司生誕80周年ということで、寺山作品がスクリーンで観られるという素晴らしき回。

 わたしは寺山が好きなのです。いや、大好きなのです。

 で、「書を捨てよ 街に出よう」。

 この作品を知っている人は多くいるんだけど、本を読んだことがある人はあまりいなくて、映画を観たことがある人はもっと少ないと思う。

 昔のものだからね。

 わたしがここで説明するのにはあまりにもスゴい映画すぎて、ちょっと気がひけるので、wikiで確認していただければいいのですけど、なんというか、簡単にいうと、少年が東京の都電の線路の脇のぼろアパートに住んでいて、母はおらず父は戦争帰りのへらへらした戦争犯罪人でおばあちゃんは自分のことをかまってほしいだけのアメリカ嫌いのくそババアで、妹は誰とも話さず飼っているうさぎにだけこころを許すうさぎ女。

 そんな少年は、母国に帰ろうとして自作の飛行機をを作り空に飛び出してすぐに墜落した朝鮮人のその数メートルの飛行に、それだけの解放感があり、どれだけの自由があったのだろうかと、その感覚と味わいたくている。

 開放。自由。

 それがどこからの開放でであるのかとか、なにからの自由なのかとか、少年はそこまで自覚はしていなくて、家からの自由というモチーフは随所に現れるのだけど、彼は家を捨てられない。

 飛び出したいけど、彼にはどこから飛び出していいのかもわからず、どこに飛び出していいのかもわからない、そんな行き止まりしかない迷路の中にいる。

 そんな彼が、都電の線路を疾走しながら叫ぶ言葉がある。

 「バカヤローッ!!」

 揺れる画面の中で、走る少年も激しく揺れる。「バカヤロー」という叫びだけが、はっきりと何層にも重なったとしてもさらに鮮明に響く。

 どこに向かうでもなく、空を切り裂くように少年は「バカヤローッ」と叫ぶ。

 わたしが叫びたかったのは、こういうことなんだと思った。

 叫びに目的をを持たせることのナンセンスさったらなくて、たんに叫べばよいのだとそう思った。

「バカヤローッ」と叫ぶ。それだけでいいのだと。

 寺山さん、ありがとうです。

 ちなみに、「書を捨てよ 街に出よう」は何回も観ているんだけど、スクリーンで観たのは始めてだった。当時もこうしてスクリーンで上映していたんだなぁと思ったり、当時の人はどんなふうにして観ていたのかなぁと思ったり、そして、その観客を暗い映画館の中で寺山はどのように思い観ていたのかなぁなど想像し、寺山はもうこの世にいないのだなぁと(わたしが生まれたときには既に死んでいるんだけど)思ったりして、そしたら泣いてしまっていた。

 寺山修司と会いたかった。死んでしまうなんて「バカヤローッ」であるよまったく。生きていれば今年で80歳。そこいらでよく見かけるご老人で80歳なんてざらにいるこのご時世。死んじまうなんて、バカヤローッ!!!!

 

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