引っ越ししました

 それは夢に見た光景。曲がりくねった道の先にある硝子屋さん。3メートルほどの高さがある大きな窓の引き戸。中には木の台があって、何枚もの硝子が積み重ねられている。ある角度からみるとそれはハッとさせられるくらい透明で鋭利に光っているがしかし、違う角度からみるとエメラルドのように濡れた緑色をしている。そんな硝子屋さんを夢で見た。

 そしてわたしはデジャヴュをした。それは東京で部屋を借りる時に内見で訪れた街でのこと。不動産屋さんの後ろをついて歩いていたときのことだった。わたしは曲がりくねった道を不動産屋さんの女性担当者の後ろをついて歩いていた。その女性は龍神さんといった。初め電話口でその名前を聞いたときに、リュウジンという音があまりにも名字として耳馴染みがなかったので何度か聞き返してしまった。その度にリュウジンさんは丁寧にリュウジンという音を繰り返したのだけど、やはり要領を得ずというか、どうしてもそれがどのような字を書くのか、そしてそれはわたしの聞き間違いではなく、本当にリュウジンさんなのか自信が持てなかった。そうして、わたしは内見を共にする人がなんと言う人なのか最後まで自信を持てずに、内見の当日に、果たしてリュウジンさんと会うことになったのだ。初めて降りる駅の改札を抜けた所にリュウジンさんはわたしの名前の書かれたプラカードを持って待っていた。リュウジンさんは黒いコートにベージュのバーバリーのマフラーを巻いていて、差し出された名刺に「龍神」と書かれてあった。わたしがその字面に目を丸くしていると、「とても珍しい名字ですよね。一度見たら忘れないってよく言われます」と言った。龍神さんとの出会いは、その一回だけだったが、確かにわたしは彼女の名前を今でも忘れていない。「珍しい名字ですね。なにか、その龍神と関わりのあるようなお家なんですか?」とわたしが聞くと、龍神さんは少し顔を緩ませて、「全然そんなことないんです。わたしの父はサラリーマンだし、母は専業主婦。家柄なんてなくて、名字だけが変わっているだけで、普通の家なんです。それにわたし、ほそーい用水路があるだけの街で生まれ育ったんです。川とはなんの縁もないんです」と言った。そんな龍神さんの後ろをわたしはついて歩いていった。龍神さんの髪は艶があって、そして歩く度にしなやかに揺れた。それはどこか龍神のしなやかなうねりのようにも思われ、だからそれでわたしはなるほど龍神さんかぁと、なにがなるほどなのかわからないけれど、実証のないものにひどく関心するモードが出来上がっていたのだった。

 そんなことも一つの理由だったのかもしれない。曲がりくねった道を進み、わたしはその光景を見たのだった。曲がりくねった道の先にある、硝子屋さん。それはまさにわたしが夢で見た光景だった。そしてだからわたしはその街に住むことに決めたのだった。それは今から4年ほど前のこと。その日は小春日和で、空がうすい青色をしていて、全体的にふんわりとした日だった。

 しかし、去年の秋に、その夢に見た硝子屋さんは店をたたんだ。店から硝子が消え、がらんどうの空間が薄暗く広がっていた。わたしは、何かが終わってしまったような気がした。それは、今までが夢の時間であったということを、あたかも映画のスクリーンが突如として暗く消え、エンドロールが流れ出すみたいにして物語の終わりが宣告されたようであった。わたしは今まで夢のなかにいたのかもしれない。その生活を思い出せば、決して夢のようであるとは言いきれない、むしろあからさまなほどに現実的なあれこれが詰まった日々ではあったが、しかし、こうして夢の終わりの宣告を受けると、それもまた夢であったかのように思われるのだった。夢に始まったこの生活も、夢が覚めるのとともに、終わりを迎えたのだと、ぼんやりと感じた奇跡のようなデジャヴュという曖昧さに身を寄せる日々は終わったのだと、そうわたしは感じたのだった。そこでわたしは引っ越そうかと思ったのだった。

 その硝子屋さんはがらんどうのまま、奥まで陽の光が届くことなくそのままの状態で日々が過ぎていった。そして、1ヶ月が経とうとしたころになり、モッズコートを来た背の高い青年が数人、元硝子屋さんの中に出入りするようになった。彼らは高い天井から電球をぶら下げ、その光りの中で白い図面を硝子が置かれていた木の台の上に広げていた。片手にはコーヒーを持ち、片手で図面の横に置かれたMacをいじっていた。

 そして、去年の暮れのこと、元硝子屋さんはサードウェーブ系のコーヒー屋さんとして開店した。そして、その日、わたしはその街を去った。

 新しい家は、その街から電車で10分もしないところだ。とても庶民的なところで、部屋の外から遠くの喧噪が聞こえる。そんな街だ。わたしの新しい生活が、すっきりとした冬晴れの日に迎えられてわたしは嬉しく思う。夢から始まったそれはあるいは夢のようなとらえどころのない生活に終わりを告げ、そして新たな生活を迎える。その生活が、果たしてどのような生活なのかわたしにはわからない。この前のような夢のような出来事のない街でわたしはどのように生活していくのだろうか。少なくとも、引っ越しの日の空はきっぱりとした青色をしていて、どこまでも鮮やかに、そして確かに街に輪郭を引いていた。

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