硝子屋さんがなくなったから
わたしは昔、カナダのトロントに住んでいたことがあった。全てが祝祭のような短い夏が終わり、秋の紅葉も早々に冬の予感がじりじりと歩み寄ってくる、それはちょうど今くらいの時期だったか、わたしは夢を見た。
わたしは夜のトロントの街をストリートカーに乗って走っていた。わたしが住んでいたダウンタウンのクイーンストリート・ウェストからチャイナタウンを北上し、ヤングストリートりへ。ヤングストリートからドミニカ人やジャマイカ人が多く住むエリアを抜けて今度は南下。オンタリオ湖の畔を走ってまた街中に戻っていく。実際にある路線を走ったり、実際には接続しない路線を走ったり、縦横無尽にトロントの街を走っていた。
ストリートカーの中は、数人がまばらに立っている程度で、特に混んでいるというわけではなかった。トロントらしく様々な人種の様々なバッググラウンドを持っていそうな人々が乗っていて、つまり、有色人種から白人種までの人々がいたし、お金を持っていそうな立派な服を来た人もいれば、ぼろ布をまとった人がいて、中には、や、クスリをキメているなと思われる人もいた。
こういう光景は実際によく目にするものだった。そしてこうした光景は、不思議と“平穏”なのだった。もちろん、夢の中でも“平穏”であって、わたしはいつものゆったりと流れるストリートカーの車窓を眺めているのだった。
しかし、気がつけばその光景はトロントではなくなっていた。グラフィティーが両側の壁に描かれた街中のダウンタウンの家の近くの細い路地を抜けると、碁盤の目に道が切り開かれたトロントの街にしてはめずらしく道は曲がりくねり、車窓に見える光景は東京の街に変わっていた。
その街が東京ということをわたしは一瞬にしてわかったけれど、しかし、その街が東京のどこなのかまではわからなかった。ただ、ゆるやかなカーブを曲がった先に見えてくる硝子屋さんが印象的だった。いつの間にか東京にきてしまったなぁと夢は夢らしく素直にその変化を受け入れるだけだった。
そんな夢をトロントでわたしは見た。
それから何年かして、わたしは東京に戻ってきた。どこに住もうかしらと不動屋さんの方と一緒に街を歩いていたときに、わたしは身体の力が抜ける感覚を覚えた。駅から続くゆるやかに曲がる道を抜けた先に、夢で見た硝子屋さんがあったのだ。そしてわたしはこの街に住むことになった。もちろん部屋をを気に入ったということもあるけれど、それよりもやはり硝子屋さんがそこにあったということが大きな決め手だった。“運命”みたいなことも思ったし、不思議で素敵だと思ったからだった。
本当だったら違う道を通った方が家まで近道だったけれど、わたしは硝子屋さんのある道を毎回通って家まで帰った。
そんな硝子屋さんがなくなった。一ヶ月くらい前だろか。この一ヶ月、わたしはがらんとした硝子屋さんの横を通り過ぎるたびに、とても、とても、さみしい。
“運命”ということを信じているわけではない。ランダムに過ぎるこの人生の中で、そういったことを中途半端に都合良く利用させてもらって人生にささやかな花をそえているというくらい。
なんだけど、やっぱり硝子屋さんがなくなってしまったことが、本当に、本当に、さみしくて、だから、引っ越そうかなぁと思っている。
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