きのうの思い出

あるいは日記というものを、ということできのうあったことをひとつ、ふたつと数えながら眠る前に。


ひとつめ 

木曜日の夜から金曜日の朝方にかけてわたしはずっと外にいて、何をしていたかと申せば人の話しを聞いていたのですけど(なんじゃそりゃ?という感じだけど、確かにそれは人の話しを聞くとしか言いようのないものでした。しかも路上で!)、それはそれは寒かったのでした。今年初の、肌を刺すような寒さでした。それでわたしはまんまと風邪をひいてしまって、金曜日の夜に熱を出しました。風邪って、どうしてこうも人を寂しくさせるのでしょうね。真っ赤な顔をぱんぱんに膨らませてわたしはふとんを抱きしめるようにして、風邪薬が導いてくれる眠気にまかせて眠ったのでした。

そしてきのう、起きると熱は下がっていて、身体がちょっと重くて、気持ちは軽くて、頭はすこしふらふらするという、わたしを構成するすべてが少しずつちぐはぐにずれている感じで、霊体離脱的感覚ってこういう感じなのか、わたしがわたしの身体からすこし溢れているような感じだと思いました。そして雨が降っているなぁと思ったところで、また寝てしまいました。

ふたつめ

きのう二度目の起床は昼過ぎ。パリでテロが起きていたことをここで知り、大丈夫かなぁと思ったのだけど、そのときに誰のことを心配しているんだろう?と思いました。わたしはパリに友だちもいなければ知っている人だっていない。辻一成さんの息子さんではないし、リュック・ベッソンでもない。そもそもフランス人について、どんな人がいるのかあまりわかっていない。だから心配するときに頭に浮かぶ顔がない。でも、やっぱり大丈夫かなぁと心配に思ってしまう。亡くなった人はかわいそうだなぁとか、その場にいた人は本当に怖かったろうなぁとか、今、フランスの人は悲しみや恐怖や憤りや、あるいは悔恨などの感情がない交ぜになってドキドキしているんだろうなぁと思ってしまう。こういうときは、とにかく同情というかシンパシーが先立って、それは言葉にならない気持ちであって、ニュースを知ったときに大丈夫かなぁと思うことであり、わたしも一緒になにかわからないけどドキドキすることなのだと思った。わたしは、知らない人の不幸に敏感でいたいと思いました。それは被害者だけでなく、今回テロを起こしたISの人についても、彼らには彼らの不幸があったはずで、やり方としては最低で到底許すことなどできないのだけれど、彼らなりに不幸があることはしかし、最低でも認めた上で何があったのかについて、そこに不幸があるはずだという嗅覚は常に敏感でいたいと思いました。

そして、わたしはまた眠りました。

みっつめ

そして、わたしは起きました。もう夕方。わたしが二十歳くらいのときは、いつでも眠くって、若さとは眠さのことではないかと思っていたけれど、今でもこんなに寝てしまう日があるのだから、年齢と眠気はそこまで関係していないのだと思いました。しかし、あのころの眠さを思い返せば、それはそれはいつだって眠くて、今の眠さとはどこか違うような気がしてきて、眠さという大きな括りでは年齢と関係ないのかもしれないけれど、眠さの肌触りということを思えば、やはり若い頃の眠さにはどくどくの眠さがあったのだと思いました。それは、世界が常にぼんやりとゆらいでたゆたうような眠さでした。これは、たぶん多くの人には理解されない眠さなのかもしれないけど、そんな感じでした。

よっつめ

で、映画を観にいきました。アンドレイ・ズビャギンツェフの「裁かれるは善人のみ」というロシアの映画。アンドレイ・ズビャ(以下略)は「父、帰る」の監督です。ロシアの北部の小さな町の物語で、町の土地買収に断固反対している人がいるんだけど、それが気づけば犯罪者に仕立て上げられてアウトになるって話しでした。

オープニングは、ロシアの荒涼とした風景。波打つ海や風に流される丘の枯れ草が薄曇りの空のしたでなんとも寒々しい。そして、高圧電線。

初めは寒い風景だなぁと思っていたんだけど、高圧電線が出てきてからはもう寂しくて寂しくてたまらんくなってしまいましたね。「誰もいない風景」が「誰もここにいない風景」になってしまったというのでしょうか。人の不在だけではとくに寂しくは感じなかったのだけど、人の気配がしてしまうと一気にさみしくなってしまう。尾崎放哉かっていうくらい寂しかった。

で、わたしの感想は、ロシア寒そう、寂しい、怖い。でした。

風景の使い方がとても上手かったし、余分なものを全てそぎ落とした鋭利さがある映画でした。

それと、映画が始まってしばらくすると場内に響き渡るはおじさんのいびき。たしかに、ロシアの映画って往々にして眠くなると言われていて、たしかにそのようであるし、わたしだってタルコフスキーの映画は何本も見ているけれど、寝ているものも結構あるのだったからいいのだけど、あまりにも豪快であったから、いらっとするよりもあっぱれと思ってしまったよ。

いつつめ

実は映画が始まるちょっと前に無性にカレーが食べたいと思い、だから映画を見終わった後にカレー屋さんに行ってカレーを食べました。味の奥行きが深くて、ちょっと苦くて、ぴりっと引き締まっていて、おいしかった。

むっつめ

ピノを買って食べた。ピノは台形×円柱形みたいな形(あれをなんと呼ぶのでしょう?たぶん呼び方あるよね)をしているのが通常なのだけど、中にはときたま星形のものがあって、それが入っているとラッキーなのらしく、友だちがこの前「☆!」というとても短い暗号のようなものをLINEで送ってきたあとに星形のピノの写真が送られてきた。それでわたしも彼女に同じく「☆!」という暗号とともに星形のピノの写真を送りつけてやろうと、星形のピノが出るまでピノを買い続けることに決めたのだった。そしてきのう食べたピノには星形のピノは入っていなかった。

という感じで流れていった11月14日。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?