なんでお前なんぞに
いやはや、右を向いても左を向いてもSNSでございます。
FacebookにTwitterに、今は専らLINE。特にLINEは、いちアプリかと思っていたら、もはやしっかりとしたインフラです。いやほんと、ほとんどの連絡がLINEでなされるようになりましたね。
この、SNSの常に誰かと繋がっている感じは、しかし、むしろ孤独感が助長されるものであって、誰かがどこかでなにかをしている写真を見て、そうなのかぁと思ったり、誰かがどこかでないかについて思った呟きをみて、そうなのねんと思い、誰かがどこかでなにかについて思ってコメントして、それについて誰かがどこかでコメントを返す、なんていうやりとりをみて、そういうこともあるねぇなどと思って…だけどこう、グッとくる実感がどれにもないと思いませんか。これつまり、高校のお昼休み、お弁当を食べながらよそのグループの話しを聞くともなしに聞いている感じ。
なんというか、こう、ズバッ!とド直球にわたしに向かってくる言葉がないというか、いや、初めからそんなもの当たり前のようにあまりなかったのだけど(だって、わたしは誰もがちやほやするようなアイドルではないのだから)、それにしてもわたしの側をかすめていく言葉と比較して、やはり圧倒的にわたしに直線で向かってくる言葉が少ないと思うのです。
わたしに向けられる言葉とわたしをかすめていく言葉の量のバランスは、それはもちろんかすめていく方が多いに決まっていて、それはわたしが他人から興味を持たれていないとか、友だちが少ないとかいうことを示しているのではなく、たんに当然のことだと思うのだけど、SNSって、そういう当然のことがまざまざと現出してしまっていて、だから、かすめる言葉の数々を思うと、どうしても孤独感というか、淋しさを感じずにはいられないのです。
ことにつけ、わたしは孤独は相対的だと思っていて、絶対的なほんとうの独りという孤独はないんだと思うのです。つまり、本当の独りであれば孤独であること自体認識できないだろうと。だから、孤独を感じるためには孤独ではない他者が必要で、自分が孤独だとすれば、“孤独でない人たち”=2人以上が必要なんだなと。そして、“独りの自分”対“独りではない他者たち”の相対として孤独という気持ちが立ち上がってくるのだなぁと。要するに、孤独は複数形。
まあ、それはそれとしてよいのでございます。相対的な孤独を感じやすくなったとして、だからといって必ずやわたしが孤独であるということでもないのですから。
だからというか、なんというか、わたし、待っているのです。わたしに向かって飛んでくるド直球の言葉を。あまりにもわたしの側を通り過ぎていく言葉の多くが見え過ぎて、それまで枯渇していると感じていなかった部分が枯渇しているように感じてしまっているのです。
そんなわたしは今、大変に怒っております。これつまり憤怒。
「木村藤子」
「神崎晶」
「吉岡みゆき」
「藤堂光」
「祐川彰洋」
この人たち、大変に不思議な方々で、わたしに大金を預けようとしてくるし、また、被害者支援機構の誰かを探しているらしいのだけど、何の被害者支援をするものであって何をするために誰を捜しているのかもわからず、そもそも、なんの因果があってわたしに言ってくるのか皆目見当つかずであるのです。
つまり、いわゆる迷惑メールです。
ケータイの画面がポンと明るくなって「お!」なんていってわたしに向けられた言葉を期待して覗き込むと上の方々…
最近はこれが一番孤独に堪えるのです。
それはもはやわたしをかすめもしない言葉であって、どこの誰に向けられた言葉でもない。中空に向かってクラスター爆弾の様に飛び散るこれらの言葉の破片が、孤独に枯渇するわたしにぐさりを刺さるのです。
なんでお前なんぞにわたしの孤独が犯されなければならないのだと、これ悲しく。さらに、なんでこんな迷惑メールに孤独が犯されるほどわたしは孤独を意識しなければならないのかと、これまた悲しい。
これからお友だちとお食事に出掛けます。
わたしは普通に孤独ではないのです。
しかし、友だちがいて、その友だちと食事に出掛けることでは埋まらない、なにか新しい孤独が生まれているように思います。
そして、わたしはその孤独に蝕まれてしまっている。
あぁ〜あ、いやんなっちゃう。
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