冬に夏の思い出

    この前は温かくて春がやってきたようでしたが、それは街をかすめただけで過ぎ去ってしまい、日付変わって今日の朝には雪が降るかもしれず、またしても冬が戻ってきました。 

 春はぼやっとやってきて、呼び鈴も鳴らさずに気づけば部屋の中で寝っころがりながらテレビを見ている感じで、対して冬は、「今キタ」というのがはっきりとしていて、ドアをどんどん叩くわ足でも蹴ってくるわで、歓迎する人もそうでない人もいるだろうけど、概ね乱暴にやってくるものだと、今般の寒暖差からそんなことを思いました。

  わたしはどこか貧乏臭いというか、冷房とか暖房とか、空気の温度を調節することに対して罪悪感があり、それは地球温暖化とエアコンとの関係や、エアコンと電気代との関係など、ことさらにエアコンを使うことの悪徳感を小さい頃に教え込まれたからかもしれないけれど、だから、この冬もまたエアコンは勿論使っていなくて、小さな電気ストーブだけで過ごしています。 

 さらに、空気がこもっているのがあまり好きではなく、それは小学校のとき、中間休みと昼休みの際に、先生が無理にでも換気をすることでクラスの風邪ひきを減らそうと努力していた、その習慣が身に付いてしまったからかもしれないのだけれど、換気を心がけていて、だから窓は基本的には開いています。 

 というわけで部屋の中はなかなか寒く、外套を着て過ごすか、布団にくるまっているかしているわけです。

 これを書いている今は、布団にくるまっています。 

 そして、こんなことを思うのです。 

「あぁ、なんで冬ってこんなに寒いんだろう…」 

 そして、こんなことも思うのです。 

 「あぁ、夏が恋しいよぉ…」 

 とはいえ、夏は夏でまたしてもほとんどエアコンを使わない生活を送っているので、それはそれは暑く、夏というものを呪うかのように過ごしているのも事実なのです。けれど、しかし、冬に夏のことを思うということがわたしはけっこう好きです。来てしまえばその暑さに怠くなるし、冷房との寒暖差に苦しむのだし、ツラクて仕方がないのだから、けっして諸手を上げて歓迎するようなこともないのですけれど、冬に夏のことを思うと、それはどこか懐かしく、あのうだる暑さと街の浮つきが嘘っぽくもあり、愛おしい。その距離感がなんともいいのです。

 その日、わたしは地下鉄に乗っていました。平日の真昼の地下鉄は、乗っている人がまばらでどこかぼんやりとしており、車両の軋む音が間の抜けたように響き、のどかな空気に満たされているのですが、わたしは椅子に座り目を閉じ、睡魔の誘惑に身を委ねようとしてもなかなかそうはいかず、徹夜で仕事をした帰りだったので、寝入ることのできないこの状況に気が立っていたのでした。

 それは、電車内の冷房のせいで、その冷房は、車両の天井中央に設置されていて、キンキンに冷えた空気を車両にくまなく送る為に一定のリズムで風向きが上下に動く式のものです。ですから、冷風は椅子に座っているわたしの頭から足先にかけてなめるように滑り降りていった後、今度は逆に足先から頭にかけて登っていき、その冷風の上下動は、わたしの身体を絶えずスキャンをしているような気にさせ、コピー機のガラス面に顔をあてがったまま眠ろうとしたときに、光の帯がまぶたの向うで絶えず上下を繰り返したら当然眠れないのと同じで、この冷風のスキャンのせいで私は眠れず、閉じたまぶた越しに天井の冷房を睨んでいたのでした。

 せっかくの夏なのに、わたしはのどかな電車の中で誰にも気づかれることなく冷房を睨んでいるのだと思うと、悔しかったり情けなくなったりして、自分が馬鹿みたいと思ってひとしきり落ち込んでガッカリしました。

 がしかし、降りる駅に電車が着くと、わたしはカッと目を見開き、キッと冷房に睨みをきかせてホームに降り立ち、動きだし脇を流れてトンネルの奥に吸い込まれていく車両を三白眼で見据え、やっぱり眠れなかったことを悔しく思って苛立って、そして電車が完全にトンネルの奥に消えると地下鉄のホームはしんと静まりかえって、すると苛立っていることに情けなくなって、やっぱり自分が馬鹿みたいと思うのでした。 

 電車がいなくなった地下鉄のホームは薄暗く、コンクリートの壁と天井が洞窟のように見えてきて、そうした人気の少ない洞窟としての地下鉄の駅のホームの中央に並ぶ円形の柱は、そこにあるだけでなにか深い意味があるようで、するとつまりここは、洞窟のなかの神殿なのであって、いまわたしはその神殿の中を歩いているのですといった妄想が立ち現れてきたのですが、それはすべてわたしが寝不足だからであって、だからとにかく早く寝たいと思いました。 

 それに、ときどきやってくる徹夜の仕事は、神経と体力を大変消耗する類いのもので、だからつまりへろへろで、歩を進めるたびにその振動が胃を突き上げてなにか込み上げてくるような感覚に襲われ、そして視界はぐらぐらするのですから、だからとにかく早く寝たいと、それだけをわたしは望むのでした。 

 人間の三大欲求の一つである睡眠欲に突き動かされ、そしてそれだけを求め歩くわたしは、もしかすると、ゾンビのように見えたかも知れません。しかし、それでもよくて、急げば急ぐほど家までの距離が長く感じられ、一方でベッドに横になったときの身体が弛緩するイメージは頭を埋め尽くし、わたしはもう、欲望にだけ従うのだと、何人かを追い越していきました。 

 エスカレーターで改札まで登ると、そこには渋滞ができていました。小さな駅ですから、改札は3列ほどしかなく、このような渋滞はときたま起こるのですが、しかし、この日は特にその列の進みが遅く、どうしたのだろうと思い、わたしは列から顔を出して前方をのぞきこむようにしてみると、一人のおばあちゃんが改札の中で鞄の中に手を入れて、必死になっているのでした。夏にも関わらず茶色と紫の厚ぼったい服を着た、針金のような白髪のそのおばあさんは、後ろに列ができていることに焦り、鞄をひっくり返す勢い。 

  「もう、おばあちゃん…」

  わたしは少し悲しくなり、それと同時にわきにどいてゆっくり探せばいいのにと嫌みな感じになって、歳をとってまでああして焦りたくはないし、逆に歳をとっているというだけで、焦っている姿がどこか惨めに見えてしまうのは残念なことだと思いました。

  結局おばあちゃんが探していた切符は鞄の中にはなく、かといってなくしたわけでもなく、普通にポケットの中から出てきました。「そこにあったんかーい」と行列を成していた皆が同時に突っ込みを入れるかたちとなり、そしておばあさんが無事に改札を抜けると、渋滞も自然と解消されたのでした。 

 改札を出て左に曲がるとそこには地上に出る階段があり、それは冷房の青白い空気と太陽に焼かれた空気がちょうど混ざりあう地点、一段一段階段を登る毎にぬるっとした空気が身体にまとわりついてくるのがわかります。そうして次第に夏の空気に身を包まれ、身体が重く感じられ、階段を登りきると遂に夏の無慈悲な光に焼かれ、どろどろと身体や意識が溶けていきそうになるのでした。 

 家に着くと、ドアを開けた途端に部屋に閉じ込められていた空気がわたしに倒れかかるようにして流れ出てきました。その空気は、部屋の中で膨張し、部屋の微細な匂いを何倍にも拡張しているので、臭いというわけではありませんが、匂いがきつく感じられ、むっとして粘り気のあるような空気の中に入って行くのには抵抗がありました。

 こういうときは、仕方なしに冷房をつけるのですが、すると、その冷風はさらさらとしていて、淀んでいた空気は次第に透き通っていくような気がしました。 

 わたしは服を脱ぎ、暑いシャワーを浴びると適当に髪を束ね、服を着ると冷凍庫からアイスを取り出し、スプーンでそれをすくいながら窓に近づきました。

 一枚の窓を隔てて、向こう側には夏があるのだなあと、エアコンのおかげで随分と涼しくなった部屋の中から、じりじりと焼かれる街を見ていました。ついさっきまで、わたしはその夏のただなかにいたはずなのに、しかし、とても快適な自室から望むその夏には、どこか現実感がなく、わたしはわたしで夏のなかにそれでもいるということの自覚がないので、なかば夏というものを鑑賞しているようだと思いました。 

 そうして冷房の効いた部屋の窓辺にいると、一方では身体が冷まされ、しかし他方では肌の表面が焼かれ、電車の中でもそうだし、外は外でもちろんのこと、夏という時期には、いたるところでそれぞれの暑さや寒さがあり、そしてわたしはそのどれにも馴染むことができず、いったい夏の適切な気温はどこに行けばあるのだろうと思うのでした。

  そしてわたしはエアコンのスイッチを切り、いよいよ眠るべくしてカーテンを閉めようとしたとき、窓から見下ろすことのできる道路を、あのおばあちゃんがゆっくりと歩いているのが見えました。 

 「おばあちゃん…」 

 どれほど歩くのが遅いのか、あの暑い夏の地獄のような道をずっと歩いていたのかと思うと、心苦しい気持ちになりました。おばあちゃんは、太陽の真っすぐ降りそそぐ光の中で、暗く沈んで見えました。 

  「もう…」 

 なんだか見るのが苦しいにも関わらず、しかし目を背けることができない、それはある種おばあちゃんに対する贖罪のようで、わたしはおばあちゃんを凝視していました。 

 すると、おばあちゃんの右手になにかが見えました。それは、小さな薄ピンクの花で、花屋さんで売られているような立派なものではなく、むしろ完全なる雑草です。どこで摘んできたのか、駅からわたしの家までの道のりを思い返そうとしても、それはぼんやりとしてしまって形を結ばず、わたしにとって家と駅との間にはなにもないような気がしてしまいました。 

 同じ道を歩いていても、わたしの知っている道のわたしの知らないどこかをおばあちゃんは知っていて、きっとそのどこかにはしっかりとその雑草が花を咲かせていたのだろうと思うと、そして、おばあちゃんはその雑草をきっと花瓶にいれておばあちゃんの家のどこかに飾るのだと思うと、「あぁ、おばあちゃん…」と胸がきゅんとなって、いいおばあちゃんだなぁと思ったのでした。 

  そして、わたしは寝ました。 

  去年の夏のことです。  

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