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2018年10月24日 7回目のこんにちは

※写真は東京拘置所の周りに咲いていた花

先に、10月22日に土屋さんから届いた手紙について触れておきたい。

面会日の2日前に、彼からの便りを手にした時、そういえば返信を書くのは私の番だったことを思い出した。

9月12日の面会の後、土屋さんから代理人弁護士の先生方の名前や、事務所の所在地が記された内容の手紙を受け取っていたのだが、うっかり返信を忘れていたのだ。

手紙の内容は、以下のようなものだった。

2018/10/22 土屋さんから手紙届く

一枚の紙に短く綴られていた。

前略のあと、弁護人たちと連絡が取れたかどうかを伺う一文があった。私が連絡を取りたがっていたのを気にしての質問だろう。

続けて、上告審(最高裁)の弁護人の先生の名前を伝え忘れていたとお詫びをされつつ、前回の手紙内容と同様、上告審の代理人弁護士の名前と、勤め先の法律事務所、電話番号までが記載されてあった。

そのあと、10月12日に、札幌の真宗大谷派のお坊さん3人と面会をしたとの報告・感想が。

実は私は前回の面会時(10月3日)に、土屋さんとお坊さんとの面会をスムーズにすべく、橋渡し役をしていた。

文末には、いつものように、体調を気遣う一文。

そして、追伸に「ぷちもふ。最高。」

※追伸につき、原文のまま引用。

追伸を見て思わず私は吹き出し笑いをしてしまった。『ぷちもふ。』とは、私が差し入れをした本のことであるが、疲れている時や嫌なことが続く日に見ると、元気をもらえる動物たちの写真絵本だ。

実は、確定死刑囚の身となった伊藤(旧姓:辻野)和史氏と交流ができていた頃に、彼からプレゼントされたものと全く同じものを購入し、送ったのだった。

土屋さんにも勿論、なにかを「かわいい」と思える感性はある。私がはじめて『ぷちもふ。』を手にした時と同じ気持ちを抱いてくれたに違いない。『ぷちもふ。』を見ながら、少しでも色のない生活に、ホッとできる時間を与えられていれば・・・と願わずにはいられなかった。

1番面会室

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前置きが長くなったが、ここから面会時のことについて書く。

水色の長袖チェックシャツに、ジャージの長パンツ、サンダルで入室してきた土屋さん。

入室してすぐに私は「きょうはシャツですね」と、回答に困るような世間話を持ちかける。案の定、どう答えて良いのか判らないような表情を浮かべていた。

今日の天気の話をした後で、彼の一審弁護人・中田先生への取材を無事終えたことを報告した。

「そうですか」と、土屋さんは少しだけ、安堵したような反応をみせた。

中田先生の取材終わりに、土屋さんが入所していた児童養護施設に寄り道したことも告げた。この時の事は、過去の記事で少し触れている。

児童養護施設の隣にある小さな公園のことを聞くと、認識があった。恐らく土屋さんが入所していた頃にも公園はあったのだろう。

前橋まで遠くて乗り継ぎも大変だった、駅からさらに歩いて疲れた、と私は愚痴に似た思いを漏らしつつ、無事に取材日の報告ができたのだった。

話題は、先日土屋さんから送られてきた手紙について移る。まずは、私が返信をしていなかったことについて詫びた。上告審の弁護人の前に、二審の弁護人に会う段取りを組もうと思っていることや、引き続き土屋さんと繋がりを持ってきた人たちから話を聞く予定でいることを伝えた。

本人は私の言動について、特に要求もしてこない。勝手にしてください、という雰囲気を醸し出しているようにもとれる。

自分に興味を持たれている人間を目の前にして、なぜそこまで淡々といられるのだろう。私の真意を聞こうともしない。彼とのやりとり、強いては面会室での会話は慣れてきたものはあるが、いつも何かやり残したことがあったかのような気持ちにさせられる。

私は何を聞き忘れたのだろうか?

面会の後、いつもそう自分に問いかけている。

刑務官が、「あと3分です」と告げたあとで、私は今日伝えようとしたことを伝えた。

「年末から、都外に移住します。」

彼は、表情を変えない。具体的な場所は伝えなかった。彼からの質問を待った。だが、その理由を彼は聞いてこなかった。私は続けた。

「今年中に、土屋さんに関わった人たちの話を聞くことに時間を使いたいと思います。」

面会の最後、

「先日、面会にお坊さん達が来た時みたいに、また外部の方から橋渡しを依頼されるかもしれません。その時は繋げて大丈夫ですか?」と聞くと、

土屋さんは、「大丈夫ですよ」と言った。

少し世間話をした後で、15分という時間が過ぎた。

ひとりごと

彼はまだ未決死刑囚だ。上告審は、事実関係を争わず、控訴審判決を裏返すほどの証拠等がない限り、書面だけの手続きになることが多い。土屋さんの場合も、差し戻しになることはほぼ不可能であり、厳しい結果になることだろう。

たまたま、このブログにたどり着いた読者が、もしも土屋さんに会おうと思うならば、今しかないと思った方が良い。文通も同様だ。死刑が確定してしまえば、文通でさえ許されない。

先述した、札幌の真宗大谷派のお坊さんの1人から、

「未決死刑囚と対面したことのない者と同席したが、死刑囚は特別なモンスターではなく同じ人間であると感じることができたと思う」という旨のメールが届いていた。

これを読むあなたも、きっと同じ想いを持つはずだ。というより持たざるを得ないはずだ。

どれだけ願ったとしても、誰一人、彼と対面などしないことは解っている。そんなことする気がないのが正常だと言われれば、誰もが頷く。

けれど誰一人、死刑囚のことを、彼のことを知ることのないまま死刑台まで見届けるのには、強烈な違和感が残るのだ。

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