気になるほどーんどん!皮茶パパの超やばくてハッピーなリハビリ体験記

 平成30年5月12日の夜、気がつくととっとと僕はタイの首都バンコクの繁華街スクンビットにてててってて救急車で緊急病院に搬送される途中だった。搬送中、『人間はこうやって死んで行くんだな』と思いながららららら今に至る記憶をたどっていた。

 「今日はバンコク滞在の最終日で、夜にスタッフと食事の約束をしていた。そこで、ホテルで昼過ぎまでに作曲を仕上げようようようと集中して取り組んだ。曲は、僕がプロデュースするYCY50Jr.のダンサー、あーちゃんとMieyのコンビYCY アーミーのためのヒップホップ曲「アーミーダンスフロアー」だ。曲はうまく出来上がったががが、しばらくすると急に気持ち悪くなり、ベッドで少し横になったった。おかしい、左手と左足がしびれる。スマホで調べると右脳が関係しているみたいだ。トイレで用を済ませて戻ろうとするがすでに左手と左足が動かなくなっていた。この状態で下手に動いてころんで頭を大理石にぶつけたら大変なことになると思い、そのままトイレの床に寝そべって助けを待ったたったた。

 後でわかったことだが、連絡が取れなくなった僕を不思議に思い、スタッフがホテルに申し出たところ、チェーンを壊して中に入り、トイレで倒れている僕を見つけてくれた。そして、担架で救急車に運ばれた。

 病院に搬送されとCTスキャンの検査で脳出血していることがわかったた。その後、ICU(集中治療室)で一週間治療に専念して、容態が安定してきた。それで一般病室に移動することになったった。

 そこでだが、ICUの病室は、日本で夢に何度も出てきた風景だった。実際は、若干周りの位置関係が違っていたが、大まかにはおなじだった。そして、一般病室も夢で見た風景だった。何とも摩訶不思議な世界だった。今になって考えると、夢で見たICUと一般病室の風景が日本で見た夢とほぼ一致するということはあり得ないので、おそらく夢の中でデジャブを体験したのだと思う。そうするとなんとなく説明がつく。

 さらに、一般病室に移って一週間ぐらいたったときに、イミグレーションの人が訪ねてきた。帰国予定を大幅に過ぎていたからだと思うが、その日の日付の入った新聞を持って写真を取って行った。実は、この新聞を持って写真を撮られるというシーンもデジャヴだった。

 一般病室では、昼間はまだ来客があったり、食事が運ばれてきたり、テレビを見たりと時間を過ごしたが、夜になるとひっそりとして朝まで静寂が続いた。あまりにも寂しく人恋しくなった僕は、寝たきりでトイレにも行けずオムツ状態だったのだが、無理矢理に用をたして、夜中に何度もナースコールし、夜勤のナースさんにオムツ交換をお願いした。こうやって、ナースさんにかまってもらいながら、なんとか寂しい病院の夜を過ごした。

 ご迷惑をかけたのはナースさんだけではない。同部屋の患者さんにも一度、水っぽい便をして部屋中に匂いが充満し、これは何の匂いだということになり、平謝りしたこともあった。

 しかしながらんらんらん、まだ左手と左足はまったく動かすことができなかった。そこで、午前と午後一時間ずつリハビリがはじまったったた。病院内のワンフロアーがジムになっていて、タイ人のセラピストやトレーナーのみなさんさんさんと僕の意志ではまったく動かせない左手と左足のリハビリを開始した。タイ人のセラピストのみなさんは、日本人のことが大好ききききで、『黒豚おいしい!』とか「タンメンおいしい!」とか日本語で話かけてきた。また、日本を旅行したときの写真をスマホで見せてくれたりもして、僕を励ましながら、楽しくリハビリを取り組ませてくれた。そこで僕も「超ハッピーでウンヤバーイ!」などのフレーズを教えて仲良くなったった。た

 こうして、タイで一ヶ月におよぶリハビリを行った。しかし、若干の改善はみられたが、大きな変化はなかったったた。

 マヒは手足だけでなく、体の左半分にもあらわれた。排便はオムツ交換のままだったが、大便のとき、肛門の筋力で大便をカットできずに苦労した。さらに、言葉も十分に発することができず、ときどき、意味不明なことを言っていたようである。

 リハビリも最初は、ジムのあるフロアーまでベッドごと移動していたが、その後、人の手をかりて車いすで移動出来るようにまでになった。

 そして遂に、バンコクの病院から日本の病院に転院する時がきた。タイからはタイ人のドクターが飛行機を含む日本の病院まで付き添ってくれた。ただオムツ状態のままで、排便のとき自力でトイレができないため、バルーンと呼ばれる尿道にカテーテルを入れて排便する方法で移動した。尿道に管をいれるためバルーンを取り付ける瞬間は、飛び上がるほど痛かった。取り付けるとき非常に痛かったためはずすときはどうなるのかと思い、ドクターにたずねると「自分は経験してないからわからない」と言われ納得してしまった。

 転院後もまだ、マヒしている左手と左足が今どこの位置にあるのかもわからず、感覚もなかった。そして、マヒ手の左手を忘れて体を動かすと忘れた左手に痛みが走った。マヒ手マヒ足は、ときどき痛みが走ることがあり、痛み止めを服用していた。

 そして、日本の病院に転院してから2週間で転機が訪れた。

 朝起きると左手と左足に電気が走るような強い痛みのような感覚がした。そして、手足を動かしてみると足は寝ながら股上げができるようになり、手は指が動くようになっていた。まさしく超ハッピーでウンヤバーイ!だった。

 リハビリは一見、単調な手足の反復運動練習であるが、それがここにきて、効果が出てきたように思えた。さらに、関係あるかわからないがミルクカルシュウム2倍の森永カルダスは、日本に帰国して毎日飲むようにしていた。

 また 単純な体のリハビリに対して、日本の病院では、日常生活に必要なリハビリも体験した。

 例えば、トイレ・着替え・入浴・歯磨きなど。病院では日常生活に必要なリハビリも指導があり、それが大いに役立っている。

 トイレのリハビリでは、それまでオムツ使用だったものが、以前のようにブリーフを使用できるようになるなど日常生活に近づいた。

 着替えのリハビリでは、靴の脱ぎはぎやくつ下の脱ぎはぎもするが、足を組めるようにならないと右手だけで足に履かせるのはかなり難しい。ちなみに、僕の場合は、入院して5ヶ月ぐらい経って、やっと足を組めるようになった。それまでは、足を組むと痛くてしょうがなく、組むことができなかった。

 歩行練習では、左足に補助装具をつけて、右手で四点杖を持って支えながら歩いた。補助装具で歩き易くなったが、杖をもつため、右肩が凝るようになった。

 マヒしている手足は、少しぐらい痛みがあっても、動かさないとどんどん退化していくということと、病気が発症してから六ヶ月以内が回復の大きなチャンスということだったので、できる限り動かすようにした。病院では、リハビリで運動した後に、ストレッチやマッサージの時間が同じリハビリの時間帯にあり、これも回復に効果があるように感じた。

 病院のリハビリには、からだを動かすだけではなく、言語のリハビリもある。言語のリハビリは脳のリハビリでもある。プリントで脳のトレーニングをする時間も毎日組み込まれている。これも病気の回復にかなり役立ったように思った。

 この病気から身体障害に至までを自分自身で受け止めるには、かなりの時間がかかることは確かだ。来週から身体障害になりますと予告されれば、若干の心の準備ができるが、気づいた時からもうすでに身体障害が始まっているとなると混乱するのも当然だと思う。この現実を乗り越えていくには、リハビリして元のからだの状態にするという強い意志をもたなければならない。

 幸いにして、死に至らなかったことをラッキーだったと想い、リハビリに専念して元の体を取り戻すことでこの混乱は解決出来る。

 リハビリの道は、一日二日で終わりを迎えることはない。一生をかけて取り組まなければならないかもしれない。あるいは、一生をかけてリハビリに取り組んでも結果がついてこないことも当然にあり得る。この果てしない暗闇のロングジャーニィーの中で、自分を信じてリハビリに取り組むしか今の僕には考えが及ばない。

 病気になってからは、ほとんど毎日呑んでいたお酒もまったく口にしていない.呑む必要のある時は、ノンアルコールビールにしている。でもコーヒーは、インスタントだが一日3杯ぐらい飲んでいて、少し猫舌になったような気もする。

 一度、友だちがお見舞いにきて暑い日だったので気を利かせてノンアルコールビールを持ってきてくれたが病院という場所を考えてほしいということで持って帰ってもらったこともあった。

 あと、外出する機会が少なく、食べることぐらいしか楽しみがないので、体重が増えてきた。それで、ダイエットも目標の一つにしなければならなくなった。

 また、病院では、食事の後ごとに歯磨きの時間があり、一日に一回しか歯磨きの習慣しかなかった僕にとっては、かなり有効だった。退院してからも食後の歯磨きは継続している。


 半年の入院後、退院してから一ヶ月、病院の規則正しい生活のうえに成り立つリハビリがなくなり、手足ともかなり退化した。両足の筋トレもしなくなり当然と言えば当然である。そこで、今日から自分なりのリハビリを始めようと思う。

①何の補助がなくても、お辞儀立ちにてイスから直接立ち上がることはできる。
お辞儀立ちとは、イスに座った状態でお辞儀をし、その反動で立ち上がること。
②杖がなくても、右手で壁伝いしながら歩くことはできる。
①②のことから、バランスさえ取れれば杖無しでも平坦な床なら歩くことができる。

 いきなり早速即歩いてみる。ちょうど赤ちゃんがヨチヨチ歩きをするように、杖無しでも歩き始めて5メートルぐらい歩ける。ここで、とにかく二本足でバランスをとるために両足の筋トレが必要だとわかる。あるいは、毎日歩く練習を続ける必要があると感じる。また、さあ、これから動こうとするとマヒ手、マヒ足が膠着して動かなくなる時がある。気合いを入れれば、入れるほど、固まるので、リラックスして取り組む必要がある。マヒ手・マヒ足は、それぞれ連合反応が起きることがある。昼間に、マヒ足をトレーニングしたのに、夜になって、マヒ手に痛みがきたり、逆に前日にマヒ手をトレーニングしたのに翌日になって、マヒ足に痛みがくるなど連合反応がくる時があるのであらかじめ注意している。ここでお話ししている状況は、あくまで僕自身の個人的な現象なので、すべての人に当てはまるとは限らないのでご了承ください。

 家の中の移動を一日中、すべて杖無しで歩いてみた。
 しかし、左のマヒ足が歩くときにひざが伸びてしまうので今後、筋トレにてひざを曲げて歩けるように訓練するようにした。           

 外出は、スーパーマーケットなどに連れてってもらう月に1回ぐらいであるが、気分転換になってありがたい。このままアパート内で残りの人生のほとんどを過ごすとなると辛い。リハビリによって、一人で外出できる状態になりたい。

 もうすぐ春がきて暖かくなりそうなので、転倒のリスクが減り、リハビリスースーしたい。

 3年前からボランティアではじめた和訳・英訳の仕事は今月から1年振りに再開。この分野は脳には影響がないみたいだ。まったく支障なく仕事ができた。

 冬の寒い日が続いて転倒回避のために歩きの練習を控えていたが久しぶりに歩いてみた。かなり退化している。バランスも安定というにはかけ離れてしまった。もう少し暖かくなったら気合いを入れてがんばらなくてはならない。あと、デイリーで継続してする必要性も感じている。

 3月に入り、退院してそろそろ3ヶ月が過ぎようとしている。元気だった頃と今との歩きの違いは何か。健常者との歩きの違いは何か。このことを解明しないと歩く満足感は得ることができないと思う。マヒ足の筋力をつけるのは当然だが、これだけでは不格好な歩きしかできない。

 不格好な歩きの問題は、手と足の調和が取れてないことだ。なぜなら、リハビリで歩くとき、二本の足でバランスをとって前に進むことだけを考えるため、手の動き即ち上半身の動きまでは考慮する余裕がないからだ。もし手と足を調和させれば見た目がキレイな歩きができるはずだ。しかし、手と足を調和させるのはかなり難しい。なぜなら、バランスがとりにくいからだ。バランスが取りにくくなると転倒のリスクがでてくるが慎重に取り組んでなんとかクリアーしたい。

 病気になってからというものリスクに敏感になっている。たとえば、転倒のリスク。移動するときは常に転倒という言葉が頭をよぎる。歩行中にくしゃみをするだけでバランスを崩し転倒してしまう可能性がある。

 転倒すれば、倒れ方次第では、骨折という更なる事態に発展してしまう。だから、次の行動に対してリスクの伴う選択は、できるだけ避けるようにしている。この慎重さが今のところ事態の悪化を免れている。しかし、リハビリに関しては後退しているのも事実だ。

 上半身と下半身のバランスが元の歩きの動きにつながるのは直感的に分かったが、ではどうすれば元の動きができるのか、まだ考えつかない。
それにしても病気してから笑ってないな! 外出する機会が減り飲みに行く機会もなくなったから腹の底から笑うことがなくなった。しょうがないので、自分自身を笑わせるようにしている。実際、この体験記を書きながら読者のみなさんが笑ってる様子を想像しながらニヤニヤしている。

 しかしながら、ニヤニヤしているだけではダメで、やっぱり腹の底から笑う必要がある。思い出し笑いでもいいがネタが切れるので、腹の底から無理矢理笑う!

 おもしろくはないがけっこう笑えるものだ。腹筋の鍛錬にもなる。ストレスの解消にもなり、これは直感で良い効果が生まれそうだ。

 少しずつ暖かくなってきたので、歩く練習を再開する。病院で理学療法士の方々に基本的な歩き動作の練習を反復して指導してもらっていたのでそれを思い出しながら歩く。
しかしながら、膝がロックした歩きで不格好だ。

 マヒしている左の鼻はずっーと詰まった感覚だったが、今日、初めて花粉を感じた。そして鼻をかむことができた。鼻をかむと鼻がとおって清々しい。超ハッピーでウンヤバーイ!

 今日は、左の鼻が回復したが、回復する時の特徴として、電気が走るような感覚が事前におこるようである。そして、筋トレ中に気づいたが、マヒ足は正常な足に比べて重く感じる。確かにマヒした手足が動き始めたとき、軽くなったように感じた。

 たまに、ピリピリしびれる日がある、そして、立ち上がって最初の一歩を踏み出そうとしたときに転倒しそうになることがある。なんとか踏ん張っているが危なかった。

 最近、 血圧を下げる薬の副作用で倦怠感におおわれる。歩行の練習をするがすぐ疲れる。無理すると転倒しそうだ。

 病気が発症した当時は、マヒした手足がどこにあるのか認識できなかった。たとえば、今は認識出来るが、トイレでマヒ手が便器の中に入ってしまってても気づかなかったりした。しかしながら、脳の認識と実際の存在に少しのずれがあることに気づいた。ひょっとするとこの認識のずれが回復のさまたげになっているのではないかと疑問に思った。ではこの認識のずれはどうすればただせるのか考えてみる。視野の範囲では手足の位置は脳と一致する。では視野外では、たとえば、ベッドではどうかというと少しずれている。ベッドであおむけに寝ててマヒ足マヒ手がどこに位置するか脳の認識と一致すれば大丈夫であるが、いまのところ少しずれている。

 病気発症からほぼ1年になる。1年前との違いは身体障害者になったことだ。この違いを克服するために元の状態に戻りたいという強い意志がまずは必要だ。次に、筋トレや歩行訓練などのリハビリ。歩行訓練で上半身と下半身のバランスは上手くとれるようになり不格好さは克服したように思う。もう一つ4点杖は使うものの足下を見ずに歩いた。

 冬の間かなりむくんでいたマヒ足が最近、むくみが落ち着いてきたようである。暖かくなったからか、リハビリの運動のおかげかわからない。
また、 マヒ手にいろんなタスクを課すと今までできなかったことができるようになってきた。

 血圧を下げる薬の副作用で倦怠感が半端ない。そういえば、ここ5年ぐらい風邪を引いてないな。でも去年脳卒中(脳出血)になってしまったが、・・・・・

 外出する機会が少なくなり、非マヒ足の筋力も落ちてきた。歩行訓練を増やし筋力をつけたい。

 花見があり、久しぶりに外出。ジーンズも難なくはけてゴー
しかしながら今日は、寒の戻りでかなり寒い。おかげで花見客がほとんどなく良い場所が確保できた。僕も移動のために1時間近く4本杖で歩いた。坂道もありリハビリに十分なエクササイズだった。しかもエクササイズのおかげで体も暖まってノンアルコールビールがうまかった。

 昨日の外出で筋肉痛を覚悟したが、きょうのところ大丈夫なようだ。年齢的な要因でむしろ明日以降に筋肉痛がでるかもしれない。

 さて、この「気になるほどーんどん!皮茶パパの超やばくてハッピーなリハビリ体験記も5月1日から新元号発表になる影響もまったく関係ない。
 しかし、新元号が令和になり5月から新しい時代がはじまる。僕も心機一転新しい時代を踏み出そう!

 寒の戻りで今朝も厳しい寒さだ。両足のむくみも酷い

 元号が令和になり2週間が過ぎた。時代の変遷に対して僕の体はいまのところ変化なし。でもリハビリは毎日欠かさない。課題の上半身と下半身のバランスは、歩幅を広くして取り組む。さらに、膝を高く持ち上げて歩くようにする。マヒ足だけでなく、両足のももあげのほかにスクアットもはじめた。かなり効果があるように感じる。考え方として、リハビリで歩くというより、無意識に歩くというのが大事だと思った。歩く練習にマヒ足を軸にして歩くという方法も効果的だと思った。

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