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天国にいった、たつのすけ。

 出会ったのは、今からちょうど1年前。初対面だったのに、昔からの友だちのように、無邪気に尻尾をふって、妻の足に身体をこすりつけてきた。飼い主のご婦人がつぶやいた。

「あら、この子は人見知りなのに珍しいわね」

 名前は、たつのすけという。毛並みも立派な柴犬だった。

 ぼくら家族は、引越しの荷下ろしをしている最中だった。火事で家を失ったばかりで、荷物はまだ軽自動車1台分しかなかった。そこにちょうどご近所のご婦人が犬をつれて通りがかった。ご挨拶しなきゃと思い、おずおずと声をかけた。

「こんにちは、こちらに引っ越してまいりました。家族5人で騒がしいかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします」

 そのとき妻の足元でさかんに尻尾をふってくれたのが、たつのすけだった。ぼくらはこれからへの不安でいっぱいだった。だからその無邪意さがありがたかった。

 以来、散歩にでかけるご婦人とたつのすけとよく出会った。ご婦人は、人なつっこくて、それでいておしつけがましさがない。バスの乗り方からゴミの出し方まで、いろんなことを教えてくれた。その傍には、いつもたつのすけがいた。そんなふうにして、夏がすぎ、秋がすぎ、そして年を越し、いつしかぼくらは、この場所で日常を取り戻していった。

 2月にはいってまもない寒い日のことだった。いつものように散歩にでかけるご婦人に出会った。

「おはようございます。今日も元気にお散歩ですね」

「それがね、この子ちょっと具合がわるいのよ」

 たつのすけは、病気にかかっていて、だんだん体力が落ちていっているという。でも毛並みも綺麗だし、耳もぴんとしてて、そんなふうには見えなかった。

「もう歳だからね、いろいろあるのよね」

 その日、ぼくのポケットにはカメラがあった。無意識にたつのすけにレンズをむけた。するとあの日のように近寄ってくる。そんなこんなで何枚かたつのすけの姿を撮影した。あの日以来、はじめてたつのすけと交わりが持てたようで、うれしかった。

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 それから数週間後。

 ご婦人は真っ赤なカートを引いていた。その荷台にちょこんとたつのすけが乗っていた。ぼくはまたカメラをむけた。ちょっと元気がないように見えた。

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 その数日後、たつのすけは静かに天国にいった。

 訃報を妻に伝えると、独り言のようにこういった。

「ここにきた時に最初に迎えてくれたのが、たつのすけだったのよね」

 なにかできることはないかと考え、たつのすけの写真を近所のコンビニでプリントアウトして、ご婦人に渡すことにした。

 ある朝、ご近所の方と談笑するご婦人の声が聞こえてきたので、あわてて写真をいれた封筒をポケットにつっこんで家を飛び出した。

 思い切って、ご婦人に声をかけた。

「おはようございます。これ先日撮らせてもらった写真です」

 ご婦人は、封筒から写真を取り出した。

「あらーこの顔なんて、すっかりすましちゃって」

 ご婦人は、一枚一枚ゆっくりとなにかを確かめるように写真を眺めていた。その顔は、ほんの少しだけ明るくなった。

「自分では撮らないのよね。だから写真はすごくありがたいわ」

 ご婦人はたつのすけとの思い出を話してくれた。もともとタレント犬として活躍していたこと。人には絶対に吠えなかったこと。好き嫌いがはっきりしてて、苦手な人が餌をくれても、ぷいとそっぽを向いたこと。

 そして、ご婦人の腕のなかで、天国にいったこと。

「眠るように、しずかに逝ったのよね」

 その言葉を聞いて、ひとつの区切りがついた気がした。

 たつのすけ。あの日、ぼくらを受け入れてくれてありがとう。君のおかげでここでの暮らしを不安なく始めることができたんだよ。まもなくぼくらはここを離れて、元の家に戻るよ。でもぼくらは君のこと、ずっと忘れないよ。

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