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僕の服を握りしめた娘の話。

 火事は思いの外、身近な出来事である。気になるようになるとかなりの頻度で起きている。

 近所を歩いていたら娘と火事に出くわした。消火活動の真っ最中なのか、消防車が何台もいて道路を塞いでいる。警官と思しき人が交差点の真ん中で交通整理にあたっている。現場は路地の奥にありよく見えないが、消防隊が忙しなく動いている。

 信号待ちをしながら、娘とふたりで様子を眺めていた。するとあの日の感覚が蘇ってきた。真っ黒な煙。消防隊員の怒号。家財が焼けた独特の匂い。自分はそういうことには動じない人間だと思っていた。しかしその光景に身を囚われた。鼓動が少し早くなるのがわかる。

 パパ、こわい、と娘が小さな声を出した。そうだ、娘と一緒にいるんだ。彼女はもっと怖いに違いない。早くここを離れなきゃ。そういえば前にもこんなことがあった。けたたましいサイレンを鳴らして消防車が二台、僕と娘の目の前を通り過ぎた。あの時、娘は泣いてしまった。そんなことに思いを巡らせ、立ち尽くしていた。

 すると娘は、僕の服を後ろからぐっと握りしめた。その感触ではっと我に帰った。おそらく数秒間、でもすごく長く感じた。僕は娘の手を握り返した。そして歩き出した。

 さぞかし怖い思いをしたのだろう、と娘の手をしばらく握りしめていた。あの火事は自分の中にも何かを残している、自分はそれを一生懸命に押さえ込んできたのかもしれない、そんなことを考えた。

 すると娘が思いがけず明るい声で、もう大丈夫だよ、と声をかけてくれた。ちょっとほっとして、握っていた手を離した。


 




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