【連載 3】葦津 珍彦氏の略歴
はじめに
ごきげんよう。
この連載は、戦後より、神道ジャーナリスト・神道の防衛者として活躍。
ペンを武器に言論戦を闘い抜き、戦後の神社界に大きな影響を与えるなどの活動をされた、昭和期の思想家・葦津 珍彦氏について、卒論研究範囲に基づいたお話です。
今回は、略歴のお話をいたします。
卒論作成当時は、作文に精一杯で略年譜は作成できなかったのですが、今投稿にあたりまして作成に力を注ぎ、卒論記述を加筆修正いたしました。
【略歴】
葦津 珍彦氏は、福岡市に鎮座する筥崎宮(はこざきぐう)にて、代々神職として奉仕する一家系(社家)の方で、神職として約10年間奉仕した後、お宮を発展させるための神苑会事業を完成させるべく事業家として活動していた、葦津 耕次郎氏の長男として、明治42(1909)年7月17日、現在の福岡県福岡市東区箱崎にて生まれました。
幼少の頃から、父君より苦難の道を歩んだご先祖物語を聞き、
母君(藩士の娘)からは武士的教育を受けて育ちました。
子供のころは体が弱かったそうです。
10歳の時、東京の赤坂霊南坂町(現在:東京都港区赤坂)へ転居。その後は関東に定住しました。
中学生の頃より、独創的な思想家になることを志して、独学でさまざまな思想・歴史関連など、数多くの書籍を読み漁ります。
そして、独創的自己思想を確立させるため、種々の主義思想を比較研究をしている最中に社会主義思想と出会い興味をもったことから、約8年間社会主義思想研究に没頭しますが、のちに父君と思想論争を重ね、父君と親交する方々と深く関わるなどした結果、自己の思想の方向性が定まり、社会主義思想研究を放棄されました。
そして、昭和9(1934)年の春、25歳の時より父君が主張する理想社会を実現させるための保守言論活動に協力。助手として活動を開始。
主な活動としては
同年5月、当時アメリカの植民地であったフィリピンの独立運動家・サクダリスタ党の代表であったベニグノ・R・ラモス氏が、日本に亡命して来たけれど強制送還されるかもしれないという事を報道で知り、父君の同意を得て、父君と交際する広田 弘毅外務大臣(当時)と会談して、自身が書いた声明文「比津賓独立戦争と我徒(わがともがら)の態度、独立派志士を米国官憲に渡すな」を渡して説得をした結果、
国外退去させないことを確約するに至り、その後はラモス氏の支援。
12月には、『日本民族の世界政策私見』という、署名第1号の論文を発表。この論文は、当時政府に関わっていた父君と親交する要人数名に送付した書簡でしたが、のちに小冊子にして公刊配布したもので、論文発表以降は、父君の意見を踏まえつつ、この私見による政策を実現するための言論活動を展開して数々の論文を発表。主に軍人・政府要人・指導者・関係者に直接訴え、同志運動家などとも関わりながら、日本人としてどのようにあるべきかを訴える言論活動を行なっていきました。
昭和12(1937)年、日華事変(昭和12(1937)年~同20(1945)年)
時には、交際する運動家に紹介された方の招待をうけ、12月に上海へ渡航。上海戦線を視察して現地の惨状を目の当たりにしたことから、現地の各人から話を聞いて確認した後、東京では知られていない戦況を報告するため急遽帰国。父君と父君の知友に宛てて、報告記「上海戦線より帰りて」を配布。
のちに政府に対して反省を訴えた父君を助力しつつ、親交する支援者とも関わりながら、上海に集結した運動家の支援連絡役をつとめられました。
昭和15(1940)年 31歳の頃には、太平洋・大東亜戦争(昭和16(1941)年~同20(1945)年) 開戦に反対する立場をとって、日独伊三国同盟に反対する論文を親交する人々に向けて発表されます。
昭和16(1941)年12月8日開戦。
戦時中は、戦争の早期終結を訴え、東條英機内閣が言論統制するなどの施策に反対して、小新聞や雑誌にて警告文を執筆して糾弾活動を行います。
このことにより東条内閣の任期中は、葦津氏は様々な弾圧を受けて逮捕・拘束されたりしますが、協力者や共感者たちに支えられながら毅然とした態度で反対する活動を続けられました。
昭和19(1944)年 35歳の頃、7月に東条内閣は総辞職。
その後の小磯 國昭内閣にて、親交する緒方 竹虎氏が入閣したため、本土決戦に備えるために「国民義勇隊」を結成させることを進言するなど、自身が考える政策に関する意見を緒方氏を通じて政府に進言していかれます(結果としては、葦津氏の意見通りにはなりませんでした)
昭和20(1945)年 8月15日以降は、米軍が占領してくるという日本史上最大の危機の中で、占領軍が神道を解体してくることを事前に予測。このことを死守するために、経営していた会社の解散手続きをされ、戦後占領体制対応に全力を尽くすことを決意。速やかに単独行動をされます。
最初は、緒方氏を介して政府に訴えますが受け入れらなかったため、瞬時に親交する神社界の中枢人物等に相談。受け入れられて即刻協議がはじまり、会合・会議に参加されて自身の私案を発表。連盟組織に奔走されました。
昭和21(1946)年 2月に神社本庁が設立。その後は依頼を受けて補佐をする中、機関紙を発行するために神社新報社が設立され、検閲時の文作成経験が豊富だった葦津氏は協力する流れとなって記者となり、神道ジャーナリストとして保守言論活動をおこなわれます。
昭和43(1968 )年 59歳の時に神社新報社を退社。
これ以降から、個人的話の著書なども発表。
その後も、伝統護持のために尽力する活動などもおこなわれて、自身が正しいと信ずる日本のあるべき未来像を求めて、日本人としてどのようにあるべきか等の心構えなどについて情熱的に訴え続けられ、数多くの方々とも対話して交流されるなどされました。
昭和20(1946)年8月15日から平成2(1990)年の大嘗祭を見届けるまでの44年間、天皇制や神社の立場がどんどん危うくなる状況下の中、神道防衛に徹して無数の論文を執筆。昭和時代の動乱期を言論をもって闘い抜かれ、その指導に生涯をささげられました。
平成4(1992 )年6月10日帰幽(逝去)。享年82歳。
晩年末期につきましては、以下の記事にてお話しております。
【文献から見える葦津氏について】
南洲翁(なんしゅうおう)を生涯の師と敬仰。
早熟で読書家。性格は激情的で頑固。あまのじゃくなところがあったそうです。
質素を好み、名声を得ることに興味なし。
聡明で博識、先見の明がおありな方で、切替・決断は早く、行動力もあり、論理を大切にして核心を突く指摘をされており、臆することなく率直な意見を述べるタイプで、抜群の記憶力、卓越した速読・速記力を持たれていたそうです。
戦後は、依頼により講演などをされておられましたが、ご本人曰く、講演することは気が進まなかったため断ることも多かったそうで、1人1人との対話をとても大切にしておられました。読者から手紙をもらった時は返事を書き、講演・講義で質問のあった方には丁寧に説明をされ、御自宅に訪問された方には、長い時には約8時間程に及ぶまでの長時間、懇切丁寧にお話をされたそうです。
特徴としてあげられますことは、中学に入ってから独創的な思想家を志され、自主的にさまざまな思想書や歴史書など多数の書籍を読まれて独学され、種々の主義思想を比較検討をされながら、自身の思考に重きを置いて論理的思考力を養われていかれたことや、言論活動をされる時には、自分がその立場ならどのように行動するか・するのかなど、相手の立場を踏まえながら想像・思考。以上を踏まえながら、実践・実行して行かれるというような実学に重きを置かれていたとのことで、現実主義者でもありました。
また、父君の知友の方などにも様々なことを教えてもらい、信頼する方に論文を校閲してもらいながら、独自の作文力を身に付けていかれました。
読者は、主義・思想を越えて様々な方がおられたそうです。
また、葦津氏の執筆スタイルは手書きでした。
著作は無数。複数のペンネームも使用され、無記名でも発表されております。その数は、「松田 義男編 年譜・著作目録(B5版)」Webサイト内にある、松田 義男編「葦津珍彦著作目録(2020年6月27日改訂版)」PDF を拝見いたしますと、目録は100ページにまで及んでおり、著作の多さがよくわかります。
【葦津 珍彦 略年譜】
明治42(1909)年7月17日
福岡県箱崎にて葦津耕次郎の長男として出生。
大正5(1916)年 7歳
福岡 箱崎尋常高等小学校入学(6年制/現在:箱崎小学校)
大正8(1919)年 10歳
東京・赤坂霊南坂町へ転居。
赤坂 氷川尋常小学校(現在:廃校)に転校。
大正11(1922) 年 13歳
東京府立第五中学校入学(5年制/現在:東京都立小石川中等教育学校)
思想に興味関心をもち、自発的にさまざまな思想書や
革命史などの書籍を読み漁る。独創的思想家を志す。
大正12(1923)年 14歳(中学2年)
思想家・大杉 栄翻訳のクロポトキン著書と出会い夢中になる。バークニン著書なども読む。
この頃辺りより種々の主義思想の比較検討をはじめる。
9月1日関東大震災発生。翌日住居は全焼。被災者となる。
(のちに渋谷へ転居)
大正14(1925)年 16歳(中学4年)
社会主義思想研究に没頭。
思想家・高畠 素之の著書を読み、
マルクス・レーニンの著書を知って読み始める。
これを知った同級生の共産党員より某経済学者を紹介される。
大正15(1926)年 17歳(中学5年)
学年終わり頃、社会科学研究会に初参加。
共産主義について討論する(意見合わず反感を買う)
昭和2(1927)年 18歳
中学卒業。
父の希望により國學院大學、
本人希望により東京外国語学校(現在:東京外国語大学)に同時入学。
父子論争の末、両校とも1カ月程で退学。
その後、満州旅行(父の事業地)
昭和3(1928)年 19歳
官立福島高等商業入学(現在:福島大学)
昭和4(1929)年 20歳
官立福島高等商業退学。
葦津鉱業公司(会社)経営を手伝う。
父と思想論争。
父が親交する諸先生方を紹介され訪問する日々を送る。
昭和6(1931)年 22歳
友人の共産党員の勧めにより、地下新聞「赤旗(のち「アカハタ」)」にて巻頭論文を執筆。(無署名公開第1号の論文)
昭和7(1932)年 23歳
1月 債務整理のため、葦津鉱業公司(会社)売却。
交際していた共産主義者等と決別。
2月 思想方向が定まる。社会主義思想研究を放棄。
父に詫び、保守言論活動の協力を開始。
父が運営する社寺工務所の代表となり神社寺院の建築に携わる。
昭和8(1933)年 24歳
父より緒方竹虎(当時:東京朝日新聞社政治部記者)を紹介され以後親交。
情報に目を開き、週1・2回朝日新聞社に通う。
(情報の集め方や判断の方法などを教わる)
昭和9(1934)年 25歳
合資会社 社寺工務所 所長に就任。建築関連会社を数社設立。
12月 『日本民族の世界政策私見』(日の丸組)小論文発表。
(署名入公開第1号の論文)これより表立って言論活動をはじめる。
(発表後、石原莞爾・永田鉄山・有馬良橘など諸氏の注目を受ける)
昭和10(1935)年 26歳
5月 フィリピンの独立運動家、サクダリスタ党の代表ベニグノ・R・ラモスが日本に亡命。強制送還の可能性を報道で知る。
同人雑誌『太平洋』にて、声明文「比津賓独立戦争と我徒の態度、独立派志士を米国官憲に渡すな」発表。
父と交際する広田弘毅外相と会談。
声明文を渡して国外退去させないことを確約。ラモスを支援。
10月 牛島テルと結婚。
(これ以降辺りより大学生寄宿寮「葦牙寮 」を運営したか)
昭和12(1937)年 28歳
12月 上海戦線視察のため上海へ渡航(第二次上海事変)
昭和13(1938)年 29歳
1月 帰国後、視察報告記『上海戦線より帰りて』各界に配布。
8月『日華和平の基本的問題』発行。日華和平を力説。
10月 台湾旅行。
昭和14(1939)年 30歳
父の療養のため、鎌倉へ転居。
昭和15(1940)年 31歳
満州旅行。6月30日父耕次郎 帰幽(逝去) ほぼ1年間服喪。
昭和16(1941)年 32歳
対米英戦反対論の書簡を交際者に向けて発表。
晩秋 義弟の紹介で法学者・井上 孚麿と会う。
昭和17(1942)年 33歳
東条内閣の言論統制に抗して糾弾活動。
小新聞や雑誌にて警告文を執筆。
逮捕入獄、営業妨害の弾圧を受けるも屈さず活動。
昭和18(1943)年 34歳
東条内閣の「戦時刑事特別法改正」に抗する。
週刊『報国新報』紙上にも批判論文執筆。
『頭山満翁正伝』の執筆依頼があり資料収集するも中途辞退。
(昭和56年葦書房刊『頭山満翁正伝』の基礎資料となる)
昭和19(1944)年 35歳
7月 東条内閣総辞職。小磯内閣にて親交する緒方竹虎氏が 国務相となり進言につとめる。「国民義勇隊」結成を進言するなど政府と関わる。
昭和20(1945)年 36歳
1月頃 国史上の敗戦史を読み、名誉ある降伏について思考。
8月13日 当時内閣顧問の緒方より政府降伏決断を知らされ、
戦後占領体制対応に全力を尽くすことを決意。
経営する事業の解散手続きをする。
8月15日 社寺工務所 所員に会社解散を発表。
事前に予測した米国による神道解体政策を緒方を介して政府に訴えるも受け入れられず、親交する神社界の基柱人物たちに相談。会合・会議に参加して神社連盟組織に奔走する。
10月『神社制度変革ニ対スル私見』神社関係者に配布。
昭和21(1946)年 37歳
2月3日 神社本庁創立。
後日、初代事務総長の宮川より補佐の依頼を受ける。
「神社新報社」が設立され(7月8日創刊)
依頼を受け「神社新報新聞」記者となる。
昭和22(1947)年 38歳
社内に法律研究グループが結成(のち政教研究室へ)され議論する。
思想研究会の教師をする。
9月 神道文化会設立(設立に尽力。経済的支援する)
昭和24(1949)年 40歳
2月 神道青年全国協議会結成
(神道青年会の前身となる神道青年懇談会を指導)
反共産主義思想活動を展開。
8月 神道青年全国協議会書記局『共産思想の追放』(神社新報)
昭和25(1950)年 41歳 (神社新報・総務)
前後頃よりのちに明治維新史研究会(機関誌「新勢力」 昭和37~42年刊行)となる定期的な研究会を開催。
『同憂通信』『共産思想の追放』など配布して大衆啓蒙。
昭和26(1951)年 42歳(神社新報・主筆)
『光栄』誌発行(27年6号まで刊行。編集責任者:石田圭介)
ペンネームで投稿。
昭和27(1952)年 43歳
1月 紀元節(建国記念の日)復古運動を開始。
神道青年全国協議会『同憂通信』(共著) 発表。
昭和28(1953)年 44歳
3月 『続同憂通信』(共著)
昭和29(1954)年 45歳
12月 『天皇・神道・憲法』(神社新報社)刊行。
昭和31(1956)年 47歳
5月 『神社新報編集室記録』(神社新報社)刊行。
10月 神社制度調査会発足。
昭和32(1957)年 48歳(神社新報・論説委員)
「共産主義のあとに来るもの」(機関誌『新勢力』2月号)発表。
昭和33(1958)年 49歳
5月 『中華革命とロシアの革命』(内外維新研究所)刊行。
昭和34(1959)年 50歳
4月「三笠宮殿下への御忠告」(神社新報社) 発表。
(紀元節問題に関連して)
昭和35(1960)年 51歳
10月 池田内閣、葦津試案をもとに神鏡について公式発表。
以下内容「伊勢の神宮に奉祀されている神鏡は、皇祖が皇孫にお授けになった八咫鏡で、天皇が神宮に奉祀せしめられたもの。よってその御本質、沿革等にかんがみ神宮の大事は皇室に連絡協議すべきこと」
昭和36(1961)年 52歳
5月『土民のことば』(神社新報社) 刊行。
6月 皇位継承と三種の神器について内閣憲法調査会に意見書提出
12月 「国民統合の象徴」論文による事件発生。
中央公論社は雑誌『思想の科学』天皇制特集に掲載した
葦津論文「国民統合の象徴」の社会的影響を懸念して発売中止する。
昭和37(1962)年 53歳
月刊『不二』(大東塾・不二歌道会)
新年号にて発売中止された全論文を掲載。
のちに『思想の科学』誌は独立。
天皇制特集第1号発行。橋川文三氏、葦津論文を批判。
葦津反論後、再反論なし。
昭和38(1963)年 54歳
7月 『神宮と憲法』(共著・神社新報社) 刊行。
12月 神社審議会発足。
昭和39(1964)年 55歳
7月 『明治維新と東洋の解放』(新勢力社) 刊行。
昭和40(1965)年 56歳
3月 『維新問答』(神社新報社) 刊行。
津市公共施設建設の地鎮祭に対する訴訟起こる(津地裁へ提訴)
4月 『大アジア主義と頭山満』(日本教文社) 刊行。
昭和41(1966)年 57歳
4月 『日本の君主制』(神社新報社、新勢力社) 刊行。
4月 『明治維新と現代日本』(神社本庁) 刊行。
6月 祝日法改正。
7月 「建国記念の日」制定。
昭和42(1967)年 58歳
4月 韓国取材旅行。学生に向けて勉強会行い講義する。
9月『ロシア革命史話』(新勢力社) 刊行。
12月『アジアに架ける橋』(共著・日本政治資料調査会) 刊行。
昭和43(1968)年 59歳
3月末 神社新報社・退社。社友となる。
(以後は社友として寄稿)
3月『明治維新』(共著・神社本庁) 刊行。
4月『大楠公』(共著・湊川神社) 刊行。
昭和44(1969)年 60歳
1月『悲痛なる先人の書簡資料』(『不二』新年号)
1月『神道的日本民族論』(神社新報社)
5月『武士道』(徳間書店)
9月『維新への展望』(新日本協議会)
明治神宮編『明治天皇詔勅謹解』編集委員としてまとめ役に従事。
11月 神道政治連盟結成(結成に尽力)
昭和45(1970)年 61歳
2月7日 妻テル帰幽(享年52歳)
2月 国民精神研修財団設立
6月『葦津耕次郎追想録』(私家版・妻と共著) 刊行
昭和46(1971)年 62歳
4月『天皇-日本のいのち』(共著・日本教文社) 刊行
4月 剣璽御動座の朝儀復活運動はじまる。
6月「祭祀と統治の間」(神道政治連盟) 発表
昭和47(1927)年 63歳
1月「忠誠の心理と論理」(神道政治連盟) 発表
2月『近代民主主義の終末』(日本教文社) 刊行
12月『法と宗教』(共著・経済往来社) 刊行
剣璽御動座の運動の指導。
昭和48(1973)年 64歳
4月『天皇-日本人の精神史』(神社新報社) 刊行
8月「日本の伝統を守る国民会議」結成。指導にあたる。
9月『日本人が虐殺された現代史』(共著・人物往来社)
10月 武道場「至誠館」設立。運営委員となる。
(設立するよう説得する)
12月『神国の理想』(共著・神社本庁)
12月『戦後神道論文選集』(同上)
昭和49(1974)年 65歳
11月7日 剣璽御動座の儀の復活運動が実り、
戦後はじめて伊勢神宮行幸に際し、剣璽御動座の朝儀が復活。
昭和50(1975)年 66歳
9月『永遠の維新者』(葦書房56年2月)
昭和51(1976)年 67歳
7月『現代維新の原点』(共著・新人物往来社)
廃刊となっていた月刊誌『小日本』復刊、主要論文掲載。
昭和52(1977)年 68歳
経団連事件、特別弁護証人となる。
7月 津地鎮祭最高裁判判決、目的効果基準により合憲で決着。
葦津論理の影響大。
8月 『靖国問題をどうすべきか』(共著・善本社)
12月 『元号‐いま問われているもの』(共著・日本教文社)
昭和54(1979)年 70歳
元号問題につき上山春平氏と「中央公論」(5・7月号)誌上で論争。
8月 『改憲の大義』(共著・嵯峨野書院)
昭和55(1980)年 71歳
2月 『みやびと覇権-類纂天皇論』(日本教文社)
3月 『大日本帝国憲法制定史』(サンケイ新聞社)
5月 「靖国問題を考える‐公式参拝の問題点」(「中外日報」新聞)
昭和56(1981)年 72歳
5月 『時の流れ‐戦後三十年余年時評集』(神社新報社)
昭和57(1982)年 73歳
7月 『葦津家小伝』(私家版)
昭和58(1983)年 74歳
宮中祭祀研究会発足。指導にあたる。
7月 『水泡と消ゆ』(私家版)
昭和59(1984)年 75歳
2月 「皇室の祭儀礼典論」(「中外日報」新聞)
昭和61(1986)年 77歳
1月3日 母なには帰幽(享年99歳)
4月 『西郷隆盛は征韓論者にあらず』(共著・玄洋社記念館)
5月 『神国の民の心』(島津書房)
5月 『神社新報選集 補遺』(神社新報社)
昭和62(1987)年 78歳
4月 『国家神道とは何だったのか』(神社新報社、阪本是丸補註)
12月 『共同研究 現行皇室法の批判的研究』(共著・神社新報社)
昭和63(1988)年 79歳
内廷費増額運動の指導にあたる。
平成元(1989)年 80歳
先帝崩御、新帝践祚に伴い「神社新報」新聞号外以下3回にわたり特別社説を執筆。
2月 『天皇‐昭和から平成へ』(神社新報社)
平成4(1992)年 82歳
4月末 『一神道人の生涯‐高山昇先生を回想して』執筆を終える。
6月 「民族の独立か個人の人権か」ペンネームにて寄稿。
[月刊誌『小日本』(第135号、小日本社、6月1日発行)]
7月 絶筆 『一神道人の生涯‐高山昇先生を回想して』発行。
6月10日 鎌倉の自宅にて帰幽(享年82歳)