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日記│カワウ、言葉、盆踊り

 カワウを初めて見た。品川方面へと向かう京急線の窓越し、多摩川のただなかに、カワウは次なる狩りに備えて、その羽を乾かしていた。

 乗代雄介という作家に出会って以来、ことあるごとに彼の言葉を思い出し、あるいは彼の言葉から逃れられないでいるが、このカワウという鳥の姿に感慨を覚えられたのも、乗代の『旅する練習』という小説を読んだからだ。まったく、情けないことに、川面の黒い影が羽を広げたカワウであると気づいたとき、涙さえ出てきそうになった。わたしは無事大学に入学できて、それでも、このカワウのように生きることの難しさに、途方に暮れている。途方に暮れつつも、例のサッカー少女も日記を書き続けていたことを思い出し、日記を書くということ、言葉を記すということに思いを馳せている。

 最近気に入っている言葉は、自分で作ったものだが、「言葉とは、読まれると同時に、書かれ、世界と接続しうるものだ」という格言調の気取った言葉で、ここに乗代の言葉を加えるならば、さしずめ「そして、残り続けるものでもある」とでもなるだろう。この自覚は言葉を読み、書き続ける以上持ち続けなければならない。言葉とは単独では意味をなさないが、そこに書き手や読み手の「想像力」が存在することで、はじめてありとある世界を描き出す思考装置となる。大江健三郎が「想像力」こそが時代の再生に不可欠である、という風に言ったのを今まではよくわかっていなかったが、やっとその意味に気づけた。とりあえず、世界は無限だ。しかし、人生は有限である。そこで、文学(言葉)という思考装置が登場する。読み手はその想像力を糧として、言葉を通していまだ知らなかった景色、痛み、喜びといった様ざまな無限の世界を知ることができる。乗代風に言えば、世界を「鞣す」ために、文学は強力で不可欠な装置なのだ。

 楽しい話をしよう。楽しい話をしようぜ!!
 一人称は、おいら、にする。一人称の世界にもたぶんLGBTQみたいなものがあって、おいらは一人称ノンバイナリーだ。つまり、おいらは、おれ、でもあり、僕、でもあり、わたし、でもある。これはたぶん町田康リスペクトなのだが。日本語の一人称は厄介で、文章の性格も、その人の性格も変えてしまうから、できるだけとらわれずに。そして本当はこの日記はできるだけ簡潔に、意味のあることだけ、と思ったが、大学に入って以来久しくふざけていないので、そんな態度はよして、意味のないことも書いてゆく。

 まずは、なぜおいらがが京急線に乗っていたか、という話だ。
 簡単にいえば、大学の先生に月島のもんじゃをご馳走してもらい、佃島の盆踊りに連れて行ってもらうため。オンライン授業でお世話になっている民俗学の先生が、ぜひ、というので、ぜひ、といって誘いにのった。

 そうして無事、月島駅で先生と落ち合うことができた。「初対面」のあいさつを早々にすませ、先生の話を聴いていると、今日集まる学生はおいらひとりだという。薄々そんな気はしていたからさほど驚かなかった。むしろ一対一で他人と話すというのは、なかなか得がたく、いつも待ち望んでいることだったから、うれしくもあった。思うに、一対一でないと、本当に話したいことは話せない。本当に話すというのは、相手が、そして自分が、いったい何を考えているのか、その輪郭を会話の中で手探りで見出してゆけるような会話のことなのだけれど。

 適当なもんじゃ屋の卓に落ち着いて、胃痛でもんじゃもビールもよしておくという先生を前に、もんじゃをつっついた。とりあえず、学問、のはなしだとか、交友、のはなしだとか、旅、のはなしだとかをした。だが正直なところ、「本当に話す」ところまでは行きつけなかった。それはたぶん、40歳近い年齢差もあろうが、それよりも、思いがけずふたりめの「学生」がもんじゃ屋にやってきたからである。
 その「学生」は、78歳のおばさんだった。市民講座のようなところで、先生に教わっているという。あえておばあさん、でなく、おばさん、と書くのは、78歳とは思えないくらいによくしゃべり、よく食べたから。とにかく、話すことには困らなかった。博識な人で、おいらの苗字を名乗ったとたんに、「ああ、〇〇の方のご出身?」と訊いてきた具合である。話し、食べ、そのうちに時間になったので、佃島へ行って盆踊りを見ることにした。

 ビルの間を抜け、小さな橋を渡ると、そこにはまったく東京の臨海地域とは思えないような、どこか懐かしい家並みがあった。佃島だ。
 川を背にして建つ神輿蔵に突き当たる道はすこし開けていて、そのわきには駄菓子屋や銭湯などが並んでいる。道の真ん中には簡素なやぐらが組まれて、そのうえには灯のともった提灯がぶら下げられていた。
 先生は音頭取りの老人と言葉を交わし、そのあいだおいらは辺りを眺めていた。この民家が立ち並ぶ一角は高層マンション・高層ビルに囲まれるようになっていて、時代に取り残されたような恰好だった。だが、それというのも、この佃島という地と、そこに住まう人々の戦国時代以来の歴史に由来する。というのは、先生やおばさんに聴いた話の受け売りだが、なかなか面白いので歴史好きの人には調べてほしい。

 さて、そんなことに思いを馳せているうちに、音頭取りの老人がやぐらにのぼり、その風貌とは裏腹に張りのある調子で歌い出して、盆踊りが始まった。まずは子どもたちの部で、しかしまだそんなに子どもはいないから地元の大人たちが踊り始めた。手足を伸ばしてゆるやかに踊るひと、小粋な風に調子をつけて踊る人と様ざまで、とくにこれという明確な型はないように思える。そのうちに子どもの数も徐々に増えだして、気づけばおいらも先生に促されて、踊りの輪に加わって土地のおばさんに踊りを教えてもらっていた。5分もしないうちに、ステップは憶えられた。無心で手足を動かしているうちに、いつしか先生もおいらのうしろで踊っている。なんとなく心地よささえ感じ出したその頃に、先生が「じゃあ、私はもう用事があって行くから、〇〇くんはそのまま踊ってて」と仰った。はあ、とおいらは踊りながら言って、さらに、どうももんじゃをごちそうさまでした、と言った。そのまま先生は去っていった。

 正直、気持ちよかった。踊りなんて何年ぶりだろう、とも思ったが、考えてみれば、2年前に高校の創作ダンスの授業で「可愛くてごめん」を踊ったな、と思い出した。あれは楽しかった。そして、今たしかに、あの時の楽しさとどこか似た、恍惚とした快楽が、おいらを包んでいた。ずっと心の中でにやにやしてた。気持ちよかった。

 子どもの部は、19時半でおしまい。あとは、子どもたちはお帰りなさい、となって、大人だけが宵闇の中で踊り続ける。おいらは、子どもの部が終わる少し前に輪を抜け出して、例の78歳のおばさんと語らっていた。年齢差60歳で、「語らう」なんて無理やろ、なんて思うかもしれないけれど、ぜんぜん楽勝だった、正直。サリンジャーを読んで以来「知識なんて汚いもんだわ」なんて思ってもいたけれど、このおばさんと話しているうちに、「ああ、知識とはかくも人を豊かにするのか」などと殊勝なことを考えてさえいた。面白いわ。やっぱ。知識ある人は。

 で、そうして話していたら、「大人の部始まりまーす」的な声掛けがあって、もう日もだいぶ暮れてきてやぐらの上の提灯が美しく映えている。おばさんは、「わたしはもうすぐ帰るけれど、そこの銭湯に入っていったらいいよ。窓から高層マンションが見えるよ」と言って、帰っていった。おいらは、することもないのですこし踊ってから、例の銭湯に入っていった。
 最近のサウナブームとか銭湯ブームとかは、へっ、ばかばかし。なんて思っているので、この銭湯の素晴らしき汚さ、狭さはぜひとも世のサウナ・銭湯ファンに味わってほしいものだ。男湯からは高層マンションも見えなかったし。インスタとかに出てくる銭湯は結局のところ、いわば観光地化されていて、本当の銭湯とはどこか違うような気がする。そういえば、この盆踊りに観光客の姿はほとんど見なかった。
 熱すぎる湯を出て、涼しい夜風のなかで盆踊りの方を見てみると、まだ続いている。踊りの輪には半袖短パンの若い男性とか、ワンピースの若い女性とか、革靴にいいポロシャツを着てるおっさんとかも混じっていて、すばらしい。体が打ち震えるような感動と恍惚のなかで時計を見ると8時半で、あと30分でおしまいになる。ちょうどいい感じに涼しく、静かな調子のうた、囃子(声)、町の灯、人びとの身体がうす闇のなかに溶け合って、渦巻いている。せっかくだし、と最後の30分も踊って、それでひとりで帰った。

 なんてすばらしい夜だろうか。なんてすばらしい経験だろうか。人びとが同じ空間で同じ音楽、同じ身体感覚を共有して、それは時空を超えて江戸にまで通じている。そして、その一端に、このおいらが加わることができた。

 ああ、ああ、とため息を漏らしてしまいそうな具合で、まったく、この話を一刻もはやく誰かにしてしまいたい気分だったので、ここに記したというわけだ。とりあえず、「言葉とは、読まれ、書かれ、世界とつながり、残るもの」の精神で。なんとなく、あの夜の静かなうたの感じ、灯の感じ、汗ばんだ首筋、白い手の先、線香の匂い、おくれ毛、そんな「エモい」では済ませたくないようなものがまだこの頭のに残っているうちに、これを書いてしまいたかった。いまだ渦巻くあの夜の感覚は、オラの手足のすみずみまで、しみわたっているように思える。


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