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2024.2.10. 小松浩子〈Channeled Drawing〉の孤高と大胆さ、死者の実存

死者は消えてしまって本当にそこにいないのか?

作家は、人間の五感で知覚できていないだけで死者は殺害現場に存在しうるのではないか?と作品を通して主張している、と私は解釈する。

自殺・他殺、事故や事件でこの世から姿を消した人について、ニュースで取り上げられる時期を過ぎてしまうと、遺族などを除けばみんな日常的には忘れるのが普通である。もちろん、ふとした瞬間に思い出す友人や家族の死というのはあるだろう。しかしながら、「自分の身近な存在ではなかった人の死」に向き合い続けている写真家って過去にいただろうか。写せないものに関心を抱く写真家が、どのようにして、人間の目やカメラで知覚できないものを「可視化」したのか、ぜひ小松浩子の作品を鑑賞して「なるほど!」と唸ってほしい。変なことを言うようだが、目に見えないがそこにまだ存在している死者と対面することになるだろう。

「戦争・事故・災害などで突発的に死亡した者、強い恨みや憎しみの感情を持って死亡した者、また自殺が完了したことに気づいていない者など、自身が既に死亡していることを受け入れられていない、若しくは理解できずに死亡した時にいた土地や建物などに留まる者は地縛霊となる可能性がある。地縛霊は死の領域へ移行するべき状況にあるのにも拘らず生の領域にとどまり固執する者でもある」

Channeled Drawingの作家のステイトメントより

死者は実はまだそこに存在しているのではないだろうか……? この作品を鑑賞したら、死者と交信できる扉がスーッと開くような感覚になるに違いない。

最初は何のことかさっぱり分からなかった

〈Channeled Drawing〉を初めてみたのは、2022年の春のIG Photo Galleryにて開催された個展である。そのときの感想は正直にいうと「何も分からない」。というその一言に尽きる。自分の読解力のなさ?前提の分からなさ?なのか、はてなマークが頭の上に3つぐらいポンポンポンッと出てきて、そのまま帰宅した。

久しぶりに作品と再開したのは、写真の会賞の選考会に出席した日である。

少々脱線すると、写真の会は、ほとんど私より年上のメンバーなのだが(同い年ぐらいの女性のメンバーは今年忙しくて欠席だった)、お金を払って参加するので、好きなだけ意見を言っていい。臆することなく意見を言うし、質問をするし反対意見も述べる。写真の会は、1984年から続いている小さな会なのだが、そこには年功序列や先輩だからと言って遠慮というものは本当に存在しない(と、少なくとも私は思っている)。女性の会員が少ないのはちょっと寂しいポイントなのだが、これから増やしたいと思っているし、増えなくても、年上の男性には同調せず意見を言っていくつもりである。

例えば、造本家の町口覚さんの技術を本当に尊敬しているが、2年連続私は彼が「手がけなかった」ものを推したので、バトルができて面白かった。町口さんは「『上の世代ファック!』と思って仕事してるし、いいものを作りたい!と思ってるんだよ」。と、お話しされて、気概がある人だ!と思っているが、私の世代も、町口さん世代の写真集の作り方にただ同調しているだけではなく、自我があるので、「こうなんじゃないでしょうか?」と思っていることを話してみる。写真の会は、自分にとって少なくとも、自分が観ていなかった写真集や写真展について情報収集ができて、かつ、何が面白かったのか感想が交換できるので、とても貴重な場である。

話を戻すと、前回の写真の会の選考中に小松浩子さんの作品を魅力的に語ってくださったのは、フォトグラフィカの元編集長の沖本さんだった。「これほど知的な謎解きのできる作品はない」との一言で、最終的に票を集めたのである。

小松浩子さんへのインタビュー前後で解釈が変わった

後日、小松浩子さんにインタビューをしにいくことになり、私はその前に東京都写真美術館の図書館に向かい、小松さんについて読める記事を片っ端から読んでいった。すると、共通して書かれているキーワードとして浮かび上がっていたのは「物量」である。写っているものから読み解くというよりも、その作品そのものの物量を強調した評論が多い。彼女の過去の作品にみられるような、物量で人を圧倒させるような制作というのは、個人的には「女にやっと時間が与えられた成果」であると思っている。数年前、福岡市美で数メートルの高さと幅がある海外作家の作品を目の前にしたときに、「この女性作家にはこれだけの大作が作れるほどの時間があったんだな」と感動したことがある。同様に小松さんの「物量」は女性が時間を十分に使って制作できていることの証拠であるともいえ、作品の解釈の本筋ではないものの、嬉しくなった。

ただ、物量について触れた評論を読んでも、まだ、〈Channeled Drawing〉を読み解くだけの入り口に立てた気持ちにはなれなかった。

インタビューの当日を迎え、私は猿楽町にあるギャラリーThe Whiteにドキドキしながら行くのだが、メインのインタビュアーの沖本さんと深川さんが幼少期の頃からお話を聞かれていたので、なかなか作品そのものの質問へと辿り着けず、何を質問しようかずっとソワソワしていた。結果的に、インタビューに行けたおかげで、〈Channeled Drawing〉を鑑賞するのが数倍おもしろくなって、やっと頭の上のハテナマークがボンッと消えていった。(※1)

もの派の文脈で読み解くと面白い

小松浩子さんの語りから分かったのは、彼女の作品は「もの派」の文脈で観ると面白いということである。これは私にとっての大収穫で、インタビューに行って本当に良かったと思った。作家は、感情を表現したり、ヒューマンドラマを見せたり、風景をありのままに撮るという作家性とは程遠く、それらとは一線を画している。作家の関心は常に撮影者から切り離された「ものそのもの」にあるのではないだろうか。

彼女のこれまでの作品をみると、制作している作家の影を限りなく薄めることで、実存とその価値について、観る側の我々に考察させているように思える。これは〈Channeled Drawing〉でも同じことが言える。

過去に自殺・他殺で意図的あるいは思わぬ理由でいつの間にかこの世を去ってしまった人の最期となった現場の地面をフロッタージュという技法で擦(こす)り出し、その紙をフォトグラムで写真に転化させている。

死んだ者の実存を呼び起こすような作業は一般人からしてみたら、狂気じみているように思えるが、それが、作家の「消えたものの存在」を立ち上がらせる試みなのである。私は写真の会での沖本さんの紹介や作家へのインタビューを経て再び作品を鑑賞(※2)したときに、この作品の孤高さと大胆さに胸が熱くなった。

(※1)インタビューという形式について、どこかで改めて考察したいと思う。なぜなら、作家のファミリーヒストリーと作品をどこまで結びつけてインタビューし編集するのかは今後慎重になるべきであるという立場を取りたいからだ。これは自分の反省点でもあるのだが、ファミリーヒストリーを聞いて初めて知れて良かったと思う点もあるが、作家の人生と作品を結びつけなくても良いケースもあると思うからである。もちろん、家族をテーマに作品を制作している作家にはファミリーヒストリーをインタビューするのは当然だろうが、全ての作家に聞く必然性はないように感じている。

(※2)2023年12月2日から2024年1月20日まで西麻布のKANA KAWANISHI PHOTOGRAPHYで小松浩子個展〈Channeled Drawing〉が開かれた。



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