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2024.5.27 写真の会の選考会

2022年に初めて写真の会に参加し、ちょっと会の雰囲気が変わったと言われるのが嬉しくて参加を続けている。今回、3回目だ。1人の持ち時間も決められておらず、持ち込む写真集や紹介する写真展の数に制限がない。そのため、語りたいことを語りたいだけ喋ることが許される1日となっている。

身の回り撮りがち問題

「身の回りを撮ってる写真が多くないですか?」と感想を漏らすと「身の回り以外のものを撮っている作家が少ないだけ」とタカザワさんに返答をいただき「そう言われてみればそうだ」と思った。身の回りのものを撮っていても、突き抜けていて興味をそそられるものもある。しかし、身の回りのものを撮るのが一般化した世の中で、鑑賞者に作品として受容されるには一昔前よりも難易度が高くなってそうだ。

書き手の少なさをどう解決するか

写真ジャンルの弱点は「書き手の少なさ」だ。農業の後継者の成り手不足並みに深刻である。語られない写真集、写真展が無限にあり、その中には書き手が見落としている大事なものも含まれている。たしかに、最近インタビューの仕事で写真家にお会いしたら「書き手がいない!」「自分の作品が評価されない!」とおっしゃっていた。個人的にはもっと「書く写真家」がいてもいいな……と思っている。過去のリサーチ、引用、注釈……と手続きにがんじがらめにされる学術論文と違って、写真家が書く文章はもっと解放されていて、感情が溢れ出る、躍動感のあるテキストになりえる。そういう文章が読みたい。

ドキュメンタリー写真の難しさ

一定の「正しさ」が求められるドキュメンタリーの分野は、道徳的モラルや政治的主張がいわゆる「正しいプロセス」を得て鑑賞者に提示されることになるだろう。個人的に、ドキュメンタリーの切り取りは、すでに新聞や雑誌、映画や単尺動画の投稿(XやTikTok)ですでに行われているので、それをあえて写真というジャンルで作品として発表するのは難しい。

もちろん、作家だけが知り合った人、聞いた声、拾った言葉、そういったものがドキュメンタリーの中にあるのかもしれない。しかし、新聞で目にしたことのある報道写真に近ければ近いほど興醒めするし、「Aは善でBは悪」という図式化されたテンプレ通りに写しているとしたら作家が介在する意味はなく、新聞に任せればいい、となる。その図式では解決できない諸問題が拾われているとしたら、鑑賞する価値がありそうだ。

学芸員の方と話せる嬉しさ

今年の写真の会には東京都写真美術館から藤村さん、東京国立近代美術館から小林さんが参加された。お2人ともお休みの日なのに来てくださり、お話ができてとても嬉しかった。あと3人くらい女性が増えてほしい。


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