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第3回 日本人にとっての「住まい方」を考える

前回、社員寮とストックホルムの集合住宅での暮らした経験を書いたが、どちらもその時は単身だった。しかし日本の住宅は、家族単位で居住することを前提にされている。もちろん、単身者向けのアパートやワンルームマンションもあるが、それらはあくまで家族を持つまで仮の住まいと想定されていたのではないかだろうか。だから単身者用の上質な住宅はあまり多くない。

夫婦と子供二人が、アパート暮らしを経て、持家戸建て住宅に住むのがあるべき姿、それが高度成長期の標準的な住まいのイメージだった。政府のGDP成長戦略としての持家政策と、それを後押しする銀行の住宅ローン。人口もどんどん増える高度成長期には、その戦略がフィットした。

しかしそれも昔の話。現在全世帯のうちの単身世帯比率をご存知だろうか?なんと38%は一人暮らしなのだ。(2020年国勢調査)。この比率は、今後も増え続けるだろう。また、全国の空き家比率は13.6%にものぼる(2018年)

僕は東京の杉並区に住んでいるが、近所には古くからの風情のある戸建住宅が沢山あった。しかし、代替わりのタイミングだろうか、建物が壊され更地になり、やがて5筆くらいに分筆され、そこにどこにでもあるような建売住宅が、ぎゅうぎゅう詰めに建てられ若い家族が移り住んでいく。こういう風景を嫌というほど見てきた。都心の他の地域でも同じだろう。相続税対策かもしれないが、こうして風景は見苦しいものになっていく。なぜそこまでして都心で、狭い敷地に無理やり押し込んだような二階建ての戸建住宅に住む必要があるのだろうか。戸建てと言っても、窓から隣家に手が届きそうな家。それぞれは独立完結していているが、俯瞰してみれば空間の使い方としては非効率極まりない、何より美しくない。

単身世帯と空き家の急増。その一方で切り刻まれた土地での狭小戸建住宅の乱立。なんだかおかしくないか。日本人の「住まい方」に何か問題があるのではないだろうか?でも、そうした風潮に合わせて、それにフィットした建物が需要を満たしていく。

多くの日本人の住まい方の、暗黙の前提を考えてみよう。
・中古より新築を強く望む
・賃貸よりも持家を望む
・プライバシー最重視。他者と交流することより、他者と隔絶することを望む
・重要な順番は、個ー家族ーご近所ー地域。戦前の「家制度」や「隣組」の残滓、と戦後の個人主義が融合した意識から、家族以外の他者を信頼しない風潮

衣食住というが、衣や食にはものすごく奥行きがありそれぞれで文化を形成している。それに対し住は平板だ。住でイメージするのは、立地・広さ・間取りといったハード面のバリエーション。衣や食に比べて発想が広がらない。上にあげたような固定観念に縛られているからではないか。箱物思考。どんな建物に住みたいかは考えても、そこでどんな暮らしをしたいかにまで考えが及ばない。効率化・均一化に価値を置いた高度成長期までであれば、とりあえず人並みの家に住めれば満足だったかもしれないが、もうそうではなく、今後さらに多様になっていくだろう。

しかし、これが日本人の文化的嗜好かといえば、そうではないだろう。あくまで戦後の傾向に過ぎない。戦前の都市では、落語にも出てくる長屋暮らしや借家暮らしが普通だった。つまり、意図して作りあげられた幻想だと思う。

今、あらためてハコモノとしての家(住宅)を考えると同時に、「住まい方」を考える必要があると思う。

今後の「住まい方」にも影響しそうな、メガトレンドを確認しておこう。

・所有からシェアへ
ウーバーやAirB&B、クラウドワーカーなどに代表されるように、個それぞれが所有するのではなく、モノやサービスを多くの人々で共有する。結果として所有に比べて、フレキシビリティーが向上し、使用コストも低下する。僕も自家用車を持っているが、稼働時間は5%にも満たないだろう。それ以外は駐車場で眠っている。サステナビリティの観点からも、好ましくない。ただ、所有欲と自分の使いたい時に必ず使える安心のために、高い保有コストを払っている。それらはあくまで感情的なものであり、今後もそれが維持されるだろうか?

・自立から相互依存へ
「他人に迷惑をかけない」「自分のことは自分でやる」。僕もこう言われて育ってきた。それ自体正しいと思う。ただ、裏返せば、「他人が困って助けを求めてきても、それは自業自得だから助けるまでもない」「他人に頼ってもいけないし、頼られても応える必要ない」というふうに、反転してしまっていないだろうか。「お互い様」や「助け合い」という、人として生きていく上でとても大切なことが、疎んじられてしまっている気がする。右肩上がりで皆んなが豊かになっていく成長期には成長エンジンになった「自立」という考えが、人口減少で縮んでいく成熟期には弊害をもたらしている。そろそろ意識を「相互依存」に転換すべきではないだろか。究極の「個」とも言える「引きこもり」は、古い意識の断末魔の叫びなのかもしれない。

・同質性から多様性へ
学校も企業も、基本的には個に同質性を求めてきた。これは、日本人に特に強い傾向だろう。そのほうが安心で楽なのだ。しかし、その弊害があらあゆるところに出てきつつある。もっとも大きい弊害は、生産性も創造性も高まらないこと。変化の少ない大量生産を前提とした社会であれば、同質性が生産性にプラスに働いたかもしれないが、今はそうではない。多様な個がそれぞれの強みを補いあってこそ、高い生産性や創造性が生まれる。それは、会社という集団であっても一緒に暮らす集団(主に家族)でも言えることだろう。そのためには、異質な他者と信頼関係を構築する能力が必要になる。

こうした変化は、住まい方にも影響を与えずにはおかないと思う。


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