澤田空海陸の曲について

(主に「遺書」と「与太話」)

 そういえばちゃんと文章にしたことがなかった。
 ツイートで曲の感想を語ろうにも適したアカウントを持っていないためここに書く。わざわざこれを見に来るのは私の文章を読むことを苦としないフォロワーだと思われるので遠慮しなくていいだろうし。
 ともかく私はこの人の曲と一緒に満たされない青春とか拗らせた思春期とかを越えてきましたよ、よかったら見てくださいね、ということ。です。

 ひとまず先日リリースされた最新曲、「遺書」の歌詞を読んでほしい。
 ちなみに空海陸さんはこの曲でメジャーデビューを発表した。デビュー曲で遺書を書いてくるの、かなり好き。

「遺書」

良い曲ってなんだろうか。
多分、あなたが褒めてくれたものが全部そうだ。

ここらで一息つきたいが、
どうやら歩幅を広げなくちゃいけないらしい。
残り滓でいいから手放せないもの。
見放されたって持っていたいもの。

ひとりよがりの音楽があって、
守らなきゃいけない凹みがあって、
誰にも渡したくなかった。
その中で、たった一人の例外だった。

良い歌詞ってなんだろうか。
多分、あなたから奪い取ったものが全部そうだ。
信じるってなんだろうか。
そうか。僕が裏切ってしまったものがそれに当たった。

天才にはなれなかった。
でも、あなたが信じてくれたから
凡才にはなれなかったよ。

あなたが好きだと言ってくれていた歌詞は、
今ではあなたを傷つける道具になった。
独りで生きるには困らないお金を
あなたの歌で稼いでいる。

誰にも触れさせたくなかった。
その中で、たった一人の特別だった。

良い歌ってなんだろうか。
多分、誰も傷つけないような歌だ。もう無理だな。
生きていくってなんだろうか。
多分、あなたがかつて嫌ったものが全部そうだ。

天才なんかじゃなかった。
でも、あなたが譲らなかったから
ここまで歩いてこられたんだよ。

そこには大きな光があるんだろうか。
変わんなきゃいけないんだろうか。
いずれにせよ僕はそれを見てみたいんだ。
いつまでも此処には居られないから。

いや、居てもいいんだ。本当はさ。
泥の中で死ぬのも悪くないよ。
それでも見せたい景色がある人の数が
あの頃より少し増えたんだ。
本当は君と見たかった夢だ。

「ほら、私がいなきゃ困るでしょ」と
また、ふざけて言ってほしいんだ。
今度は本気で言ってほしいんだ。
「この曲、好きじゃない」と呆れてくれ。

自分を信じられなくなった。
書きたいことなどとっくに無くて、
足はとっくに止まってしまった。
最後だから言うよ。うん、ちゃんと困るよ。

良い曲ってなんだろうか。
多分、あなたが好きじゃない曲がそれになっていくんだ。
振り返っても、書き直しても、何も変われないから。

君のことを書いた歌を、君が歌っていた。
僕より少しだけ音痴で、よほど血が通っていたんだ。
リズムは撚れてしまって、裏声は細くなって、ぐだぐだ、ぐだぐだ続いた。

ご機嫌な尻尾みたいだ。
ゆらゆら、ゆらゆらしていた。
引っかかる桜みたいだ。
ひらひら、ひらひらしていた。
夜中の信号みたいだ。
ふらふら、ふらふらしていた。
散骨のように目に焼き付いた。

煌々していた。

消えない価値を貰った。
あぁ、これは覚えておこうと思った。
この先、何年かかっても、
そんなの望まれていなくても、
返したいんだ。話があるんだ。

聞いてほしいんだ。

あぁ、違うな。もっと単純なことだった。
寂しいよ。君がいないとさ。

以上をもって、これを僕の遺書とする。

「遺書」MV YouTube概要欄より


 澤田空海陸(risou、Sori Sawada)の歌詞の特徴のひとつに、句読点があることが挙げられる。
 これがどんな効果を持つとかどんな意図で書かれているとか細かいことはよくわからないが、これを見ながら歌うときはいつもすべての言葉を丁寧に口にしたくなるので良い。それに加えて、「~なんだ。」「~だよ。」「うん」といった語りかけるような歌詞。もちろん曲によるものの、最近の曲の多くは一人称視点で、しかも明確に誰かの方を向いて歌っている感じがして、なおのこと良い。

 これが最もわかりやすいのが、「与太話」だと思う。
 動画は、部屋で机に向かう人物の後姿と、打ち込まれていく歌詞の画面に2分割されている。「僕には、これしかないんだ。歌詞を書く自分だけが自慢で、それ以外が見るに堪えないんだ。」という言葉がずっしりと重みをもってくるような映像だった。
 「与えてあげられんかったか。」というかなり口語の歌詞は非常に人間味を感じるし、「ごめんな。ごめんね。」と弱々しくなる言葉尻にも感情の整理のつかなさが表れているように思えて、「話」とはそういうことだよなあと思った。
 この曲で一番好きなのは、「聞かなくていいよ。」「君は聞かないと言った。それでいい。」と言っているくせに、最後の最後で「結局、聞いてるじゃないか。」で終わるところだ。これは一種の賭けなのかもしれないし、そうであれという希望かもしれないし、もっと余裕で「どうせ聞いているんだろう」というからかいかもしれない。いずれにせよ、ここで急にこっちを向く感じがしてどきりとした。ただただ自分の内側で記憶を反芻するような歌かと思っていたら、突然目を合わせられた気がした。もちろんそんな意図があったかは知らない。ただ、この瞬間に「これは誰かに宛てた手紙なんだ!」と思ったのを覚えている。

 「遺書」に戻る。
 タイトルにするだけあって、これも誰かに見られる/聞かれることを前提とした文章だと思う。「あなた」のことを歌にしてきたことの負い目と、「あなた」がくれたものへの感謝と、それらへの区切り。きっと「あなた」は語り手のすべてだったんだろうと感じた。「あなた」が居たことで得た喜びと苦しみがあって、その全部を肯定する歌。
 邪推に過ぎないが、この曲はメジャーデビューという光の中に行くためには必要な区切り、ピリオドだったのではないかなあなどと考えている。だから遺書なのだろう。

 映像に関してはまったくの素人なので一切の言及を避けたいところだが、溝畑幸希さんがかわいい。本当にかわいい。
 私は「望春」で溝畑さんのことを認識したわけだが、わりとこの人の笑顔を見るためにMVを再生していた節がある。どの映像でも、楽しそうな、幸せそうな表情と動作がたいへん上手な方だ。だからこそもう取返しのつかなくなったあとの歌詞が刺さるのだけれども……。

 歌詞もMVも、「遺書」には澤田空海陸のこれまでがたくさん詰まっている。オタク、こういうの好き。
 最たる例は「振り返って」だろう。踏襲されたメロディが入ってきたとたんにはっとさせられた。
 「振り返ったら、振り返ったら何か変わる気がした。」
 「振り返っても、書き直しても、何も変われないから。」
 思い返せば「振り返って」でも「一つの区切りにする。」と言っていた。ただそう簡単に区切れなかったから「遺書」があるのだろう。
 他にも、過去の曲を想起する言葉はいくつもある。ご機嫌な尻尾、引っかかる桜、夜中の信号の畳み掛けで毎回泣きそうになる。遺骨替わりの歌詞もきっとそうだと信じている。
 ここに全部を書いたわけではないし、おそらく私が気づいていない仕掛けやこだわりも大量にあるのだろうなと思う。
 でも最終的には「単純なこと」で終わるのがとてもらしくて良い。
 「あなた」がいなければちゃんと困る。それ以上に寂しい。
 これが聞けて私はすっきりしたし、この曲が生まれてよかったと思った。最後にならないと言えない不甲斐なさも含めて。

 澤田空海陸の歌を聞くとき、過剰に文脈を意識している自覚はある。
 無論、作者と作品は別である。しかしながら澤田空海陸に関してそれを完全に分断して考えるのは難しいし、そういう作品が私は大好きだ。無から有が生まれているわけではないのだから、作品がその人のすべてだとは思わないが、その人の一部が作品に滲み出るのはおかしな話ではないだろう。
 その上で、かつて「与太話だよ。聞かなくていいよ。」と断じたものを、今になって「聞いてほしいんだ。」と言える変化が、私はうれしかった。
 本当にうれしかったです。

https://youtu.be/uNxIITTU6w4?si=oAEDJT_U72Et7cJm

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