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子どもの描いた絵がワケ分からないのは、ワケ分からないと僕たちが思っているだけ

大学生の頃、僕は学童保育のアルバイトをしていました。

主な業務は小学校1年生から6年生の子供たちの遊び相手。
ある日、1年生の男の子が僕に、自分で書いたらしい絵を見せてきました。

男の子はニコニコしながら、見て!と目を輝かせています。

その子が指さしたキャンパス(チラシの裏紙)には、点が無数に書いてあるだけ。
正直僕は、その点々が一体何を表しているのか分かりませんでした。

僕「すごいね!何を書いたの?」
男の子「うーん……」
僕「お星様かな?綺麗だもんね!」
男の子「……」

その子は自分の言いたいことがまとまらないのか、終始モジモジして結局何を書いたのか話してくれませんでした。

その子が何を「イメージして」それを書いたのか、何を「書き表したかった」のか、今でも分かりません。

ですが、13歳からのアート思考を読んで、その疑問が解消されました。

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末永さんの絵

筆者である末永幸歩さんも2歳の時、描いた絵をお母さんに見せたそうです。

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その時、末永さんはお母さんと次のようなやり取りをしたといいます。

末永さん「みて」
お母さん「なに描いたの~?」
末永さん「……」
お母さん「虹?」
末永さん「……」
お母さん「う~ん、なんだろう?」
末永さん「……」
お母さん「(茶色い部分を指差して)コロッケ?」
末永さん「……」

末永さんは自分から「みて」と笑顔で声をかけたにもかかわらず、お母さんからの問いかけに対しては、中途半端な表情を浮かべて首をかしげるばかり。最後には別のことに興味が移ったのか、会話を放り出してほかの遊びをはじめてしまいました。

結局、お母さんには、末永さんがなにを考えてこの絵を描いたのかはわからずじまいになってしまったようです。

私たちは、「絵になにが描かれているのか」が分からないと、なんとなくすっきりしません。
お母さんの「なに描いたの~?」「虹?」「コロッケ?」などの問いかけは、「絵=なんらかのイメージを映し出すもの」という1つの「ものの見方」から発せられています。

この絵の作者である末永さんは、当時どのようなことを考えてこの絵を描いたのでしょうか。以下は、末永さんの分析です。

弧状の線を見てみると、左端が右端よりも少し濃くなっているのがわかります。左端に力がかかっていることから、この線は「左から右」に向かって描かれたと推測できます。
続いて、「コロッケ?」と母が聞いていた茶色い部分。先ほどの弧が右に傾いていることから、私が座っていた位置は絵の真正面ではなく、少し左だったと推測できます。つまり、茶色い部分は身体のいちばん近くに位置していたはずです。
腕を伸ばして弧を描くときとは違い、自分の身体の近くは、力を込めてクレヨンをこすりつけることができたのではないでしょうか。

これらを踏まえて、当時2歳だった私が、この作品のなかに見ていたことを想像してみましょう。

① 腕を左から右に動かし、紙の上にクレヨンをスルッと滑らせる
② もう一回、もう一回、色を替えてもう一回。面白くなって、何回もやってみる。目の前に、弧状の線がたくさん重なる
③ 茶色いクレヨンを手に取る。腕をギリギリまで伸ばし、左から右にいちばん大きく動かした
④ そのクレヨンを、今度は手前にこすりつける
⑤ 自然と力が入る。クレヨンのヌルッとした感覚が面白い。夢中になってこすりつける
⑥ 気がつくと、目の前に茶色い塊が現れていた
⑦ お母さんに見せてみよう!

そうです。
幼かった末永さんがこの作品に見ていたのは、「虹」「コロッケ」といった、絵の向こう側にある「イメージ」ではなく、自分の身体の動きによって紙の上に刻まれていく「行動の軌跡」だったのです。

だとすると、冒頭の学童保育の男の子の絵も、もしかすると何かをイメージしたものではなかったのかも知れません。

シャーペンや鉛筆を紙の上に落とす遊びをしているうちに紙の上で点々が連なっていき、その結果を僕に見せてくれたのかも知れません。

僕たち大人にとって、絵画はなにかの「イメージ」を映し出すものという固定観念があります。
でもそれは、僕たちがそう思うからであって、そうでなければならないという訳ではありません。

僕は、「絵画には何かのイメージが描かれているはずだ」というバイアスにかかってしまい、小さな子どもが生み出した芸術を理解することができなかったのです。

これはきっと、絵画だけに限らないんだろうなぁと思いました。

物事に対して理解が及ばなくなった時、「一歩引いて枠組みを捉えなおす」という行為をしてみると、何か面白い発見があるかも知れませんね。

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