言葉の本質ってどこにあるの?【言語ゲーム】

先日、「痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います」というアニメを見ていたら、山口勝平さん演じるキャラの声を偶然聞いた妻がいきなり、「耳が妊娠する……」と言って倒れました。
#よそでやったら絶対ダメですからね 、とキツく叱っておきました

本日は、「言葉の本質ってどこにあるの?」というテーマで書きます。

僕には、

「年に数回くらい疑問に思うけれど、大したことじゃないし別にいっか……」と、結局いつも深く考えないけど実は気になることがあります。

それは、赤ちゃんってどうやって言葉を覚えるんだろう……という疑問です。
僕がそんなことを疑問に思わなくても世の中の赤ちゃん達はどんどん言葉を覚えていくし、人にこういうことを質問すると「何だコイツ……」みたいな顔をされるので、結局その謎は解明しないままでした。

だって不思議じゃないですか?
赤ちゃんって、言葉を知らない状態で生まれてくるのに、どうやって言葉を覚えるんですか?
言葉を教えるには言葉で説明しなきゃいけないのに、その説明する言葉自体も赤ちゃんは分からない訳ですよね。

これは……あれに似てます。

辞書の中のメリーゴーランド

皆さんは「辞書の中のメリーゴーランドを見つける」という遊びをしたことがあるでしょうか。

例えば「複雑」という単語の意味を明鏡国語辞典で調べてみると「物事がさまざまに入り組んで、簡単にはとらえられないこと」と書かれています。
次に、今ここに出てきた「入り組む」という語を引いてみると、「物事が複雑に絡み合う」とあります。
そこでさらに「絡み合う」を引いてみると、「いくつかの事柄が複雑にかかわり合う」と出てきます。

そうです。
複雑→入り組む→絡み合う→複雑という具合に言葉の意味が辞書の中で言葉の定義が循環しているのです。

なぜこのような現象が起きるのでしょうか。
ここで、「世界は贈与でできている(近内悠太)」の言葉を引きます。

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辞書というのは、すでに言語をある程度習得している人間が「言葉で言葉を理解する」ための書物です。だから、言語を習得する前の幼児に辞書だけを与えても、当然、言語を習得することなどできませんし、辞書を引くだけで第二外国語を習得することも不可能です。

つまり、辞書って言葉をある程度理解してないと意味無いよねってことですね。

そしてこの指摘が正しいとするなら、赤ちゃんは、その言葉をまったく理解しない状態から、どこかの段階で「言葉によって言葉を理解する」という状態に移行したことになります。だとすれば、言葉によって言葉を理解する以前の、言葉の直接的な理解というものは何だったのでしょうか。

それはもちろん、様々な「経験」ですよね。
20世紀を代表する哲学者のルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは次のように言います。

言葉を教えるということは、それを説明することではなくて、訓練するということなのである。

赤ちゃんに対する最初に思い浮かぶ「訓練」は、大人が窓を指差しながら「ま・ど」と発話して教え込むようなものですよね。実物を見せて、言葉と物体を結び付けてもらおうというわけです。
でもこれだと、実は赤ちゃんは「窓」が「まど(という性質を持ったもの)」であることを理解することはできないと近内さんは言います。

なぜなら、指を差して言葉の意味を定義するのでは、「何を指さしているのか」の解釈が無数に存在しているからです。
試しに皆さんも窓を指さしてみてください。
皆さんの指がさしている先には何が見えますか?
「窓」を構成している強化ガラスですか?カーテンですか?レースですか?それとも窓の外にある空間ですか?空ですか?南向きという方角のこと?明るさ?

この時、赤ちゃんは「あれが窓だよ~と指さされた先に見えるものはいっぱいあるけど、一体どれのこと言ってるんや?!」となっています。

「いやいやそんなことないでしょ……さすがに分かるでしょ」と思うのは、僕たちが、「窓以外のもの」が「窓」ではなく、他の名前があることを知っているからです。

ではどのようにしてその前提の言葉を習得できるのか。
それは、親や周囲の大人から「寒くなっていきたから窓を閉めようね」「ほら、窓見てごらん、お月さま出てるね」といった(窓を閉める、外を見るといった)活動を言語的コミュニケーションが合わさったやり取りを通して、徐々に学習してきた、と近内さんは述べています。

つまり、「窓」という語がどのような生活上の活動や行為と結びついて使われているかという点に、「窓」の意味があるということになります。

抽象化をすると、「言葉」自体に意味はなく、コミュニケーションで使われて初めて「言葉」は意味を持つということですね。


このことを、ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と名付けました。

昨年はラグビーのワールドカップがありましたが、こんな経験はないですか?

ラグビーのルールを全く知らない人がある場面を見せられて「これがノックオンだよ」と言われた時「え?!これって何が?!どれが?!」となりませんでしたか?
正しい意味は、「ボールを前に落とすこと」というルール違反のことです。

これに対して「ボールを地面に落とすことかな?」という理解ならまだいいですが、「今ボールを持っていた人がノックオンさんという名前なのかな?」「君が今持っているビールの商品名かい?」「そんなのいいから飲もうぜ!!」とかいう人が必ずいます。
いないか……?
いや、います。

ラグビーに例えなくても、言語ゲームは発生します。
例えばサッカーとバスケのルールしか知らない人が、野球のある場面を見せられて「これがファールだよ」と言われたら、「あぁ、ルール違反のことね」と自分が既に知っているルールに当てはめて考えてしまうかも知れません。

要するに、自分がその時に取得している言語のルールでその言葉を理解しようとする事象が発生するのです。
世の中の言葉は「言語ゲーム」によって支配されてるっぽいのです。
面白い考え方ですよね。

本日の結論です

・言葉を理解する前の赤ちゃんは、当然言葉によって言葉を理解することはできない
・周囲の人間が、言葉と活動を交えたコミュニケーションをとることで、赤ちゃんは徐々に言葉の「意味」を習得していく
・自分がその時に取得している言語のルールでその言葉を理解しようとする「言語ゲーム」の中に人は生きている

これを踏まえて2点思ったことがあります

① 誤った意味で使われている言葉も、たくさんの人の生活の中で使われ続ければ本来の意味が淘汰されて意味が変化していくのも当然のことなのかな?
→例えば、平成23年の文化庁の国語に関する世論調査によると、「割愛する」を「不要なものを切り捨てる」という意味で使っている人が65.1%でしたが、本来は、「惜しいと思うものを手放す(回答率は17.6%)」という意味です。

② 言葉の本質が「言葉自体」でなく言葉の「使われ方」に宿るのだとしたら、物の本質も「物自体」に宿るのではなく、「使われ方」に宿るのかも知れない
→例えば、本は自分が買えば教養を身に着けるもの、人に渡せばギフト、部屋に飾ればインテリア

包丁は料理人が使えば美味しい料理が出来上がり、悪意に満ちた人が手にすれば殺人犯が出来上がる。

「言葉」や「物」のもつ意味ってそれ単独では確定せず、コミュニケーションの中でかかわり合うことで意味を持つ。
そう考えると、意外と面白い発見があるかも知れませんね!

それでは、よい週末をお過ごしください。

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