当たり前と神話的暴力

こんにちは。
僕は映画やアニメを見たり小説や漫画を読んだり、ひたすらゲームをしたりするのが大好きなのですが、その日まで自分のことをアウトドア派だと思っていたので、先日妻に
「こんな晴れた日に自粛キツいわー」と言ったら、
「自粛検定1級インドア詐欺師」
というオシャレな称号を獲得しました。
#仲は悪くありません

今日は、「当たり前と神話的暴力」という少し哲学チックなお話を書きたいと思います。

僕は大学時代

学童保育でアルバイトをしたことがあります。
子どもたちは底なしに好奇心旺盛なので疑問に思ったことは何でも聞いてきます。なまじ知識をつけた小学校高学年なんかには、ある程度根拠を持って的確に答えられないと普通にナメられます。

ある日、4年生の男の子が「なぜ人を殺してはいけないの?」という疑問をぶつけてきました。

この疑問に、皆さんならどのように答えますか?

僕はこの時、高学年になら…と思ってこう答えました。
法律で決まっているからだよ」

そうすると当然、次のような疑問が出てくる訳です。
なぜ法律を守らなくてはいけないの?」

これに対する僕の答えは一つしかありません。
そういうものだから

子どもたちの顔は曇ります。
その説明だと納得ができないのです。
だって子どもたちは、「人を殺してはいけないこと」、「法律を守らなくてはいけないこと」は分かっているのです。でも、なぜ?かを聞きたいのに、それを明確に答えられない大人に苛立ちを覚えます。

結局、当時の僕は子どもたちのオーダーに答えることはできませんでした。
どう答えれば良かったのか…。
妻は幼稚園教諭でしたので、幼稚園生にはどのように教えているのかを聞いたことがありました。

妻が言うには「日頃から「自分がやられて嫌なことは相手にはしちゃだめだよ」と口酸っぱく教えているから、そもそもそんな質問をされた記憶がないなぁ」とのこと。

なるほど…。
この教えに答えがありそうだけどイマイチ言語化できないなぁ…。
うーん、と唸っていたところ、小須田健さんの「哲学の解剖図鑑」にヒントが書いてありました。

画像1

本書におけるこの疑問への回答を述べると、「自分も殺されてしまうから」です。
小須田さんは、プロイセンの哲学者であるイマヌエル・カントの考え方を取り入れてこう書いています。

カントは、何をする場合でも一番大事なのは「みんなもそうすることが望ましいと思えるルールに従って行動すること」だと考えました。その行為や考え方を、普遍化したらどうなるか(みんな同じことをしたらどうなるか)が、行動の良し悪しを評価するポイントになります。

たとえば「嘘をつく」と言う行為が普遍化されると、誰もが嘘をつくような、約束や信頼が不可能な世界になってしまいます。
→だから嘘をつくのは良くないよね、ということです。

「人を殺す」という行為も同じで、殺しが普遍化したら、誰もが血で血を洗い、人を殺すような悲しい世界になってしまいます。
→だから人を殺すのは良くないよね、ということです。

そしてそんな悲しい世界では、自分はいつ殺されるか分からない訳です。
だからもし自分が誰かを殺したなら、やがてその矛先が自分に向くことは容易に予想できる、というのが小須田さんの意見です。

要するに、「人を殺してもいい」と思っている人は、同じく「人を殺してもいい」と思っている人に殺されてしまうよ、ということですね。

この答えには

自分としては納得がいきました。
というのも例えば、「相手の家族がかわいそうだから」とか、「法律で罰せられてしまうから」という理由だと、「僕は相手の家族をかわいそうだと思わないよ」とか、「罰を受ければ殺してもいいということだね」という反論の可能性を残してしまうからです。

その点、「自分が殺されてしまうから」という理由は、「僕は殺されても死なないよ」という反論ができないため、論理的だなぁと思ったのです。

なので、妻が園児に「自分がされて嫌なことは人にしたらいけない」というのはある意味この哲学に近くて、純粋な疑問に答えなければならない立場や職種の人はすごいなぁと感嘆しています。

この件を踏まえると、当たり前のことを当たり前に説明することは意外と難しいし、当時の自分はスッカラカンのウスラトンカチだったな…と当時を回顧します。


でも反対に…

当たり前のことだと思っていたことが、実は当たりまえではないのでは?ということもあります。

例えば、「法」です。
先ほど僕は「法律を守るのは、そういうものだから」と小学生に回答しましたが、そもそも法律の妥当性はどこに求めることができるのでしょうか。

そう、憲法ですよね。

日本では日本国憲法で国家をルール化し、そのルールの中で立法府が法律を作成します。よって、法律は憲法を超越できません。
では、その憲法はどこに妥当性を求めることができるのでしょうか。

実は、そのような権威はないのです。

例えば、フランスの哲学者ジャック・デリダはこのことを次のような事例で指摘します。

アメリカの憲法に相当する「合衆国独立宣言」には、「われわれはこれらの諸邦の善良なる人民の名において、交付し宣言する」と書かれています。
しかし、この「諸邦の善良なる人民」にあたる存在は、実際にはこの憲法が宣言されたあとでその存在が確定するのであって、宣言を作っている段階では想定されているだけのものです。
つまり、諸邦の善良なる人民の存在をさきどりする形でしか、合衆国独立宣言の根拠は確立され得なかったのです。

ドイツの哲学者、ヴァルター・ベンヤミンは、このように「いかなる法も遡れば決定的な権威を欠いている事態」を「神話的暴力」と名付けています。
神話的(昔からそうだった)暴力(根拠のない強制力)という点をさしての表現です。

ベンヤミンは、法は神話的暴力であると言っていますが、この暴力は様々なコミュニティで発生し得ると思います。

皆さんの周りにも

ありませんか?神話的暴力を振るうものが…。
会社での意味不明なルールや暗黙知、前例踏襲など…。
「昔からこういう風にやっているから」とか、「決まりだから」とかに対して、なぜ?と聞くと実は誰も分からない…みたいなことありますよね。

そのような既存のルールや決まりに出合った時、「なぜそれを守るのか」を考えることで、それが「当たり前のこと(説明できること)」なのか「神話的暴力(説明できないこと)」なのかを判断することができると思います。

当たり前のことであればそれを当たり前に説明できればいいし、神話的暴力だった場合はなぜその決まりを作ったかという所まで抽象化して別のルールに具体化すればいいという訳ですね。

という訳で本日の結論は次の通りです。

・僕が思う「人を殺してはいけない」理由は「自分が殺されるから」
法は遡っていくと何にも担保されていないものである(だから守らなくていいということではない)
・これを神話的(昔からあった)暴力(根拠のない強制力)という
・身の回りのルールや決まりは、なぜ?と問うことで「当たり前(説明できる)」なのか「神話的暴力(説明できない)」なのかを判断するべし
・当たり前なら説明できるようにし、神話的暴力なら抽象化して別のルールに具体化してみる

ルールや決まりを守ることは大事ですが、なぜそれを守るのかを説明できるようなることの方が大切な気がします。
でもこれが意外とできません。人に説明するには自分で理解する倍の情報量が必要だからです。

ルールや決まりを表面で捉えていると否定から入る人間になる気がするので、自分が誰かに何かを教える立場になったときに備えて、常になぜ?を考えながら前向きにアクションを起こしていきたいなぁと思いました。

それでは、よい週末をお過ごしください。

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