見出し画像

小学生の時、ピアノは僕の宿敵でした【アドラーの目的論】

僕にとって、「楽器の演奏」というものはトラウマの1つでした。

小学校の時です。
音楽の授業で、それぞれ自分の好きな楽器を選んで1つの曲をクラスの皆で演奏することになりました。
曲はポルノグラフィティさんのメリッサ。

圧倒的人気を誇るトライアングル争奪戦(定員2)に負けた僕は、どう考えても需要と供給がマッチしないミニピアノ(定員6)にあてがわれてしまいました。
僕以外の5人は、多分3歳ぐらいからピアノを習っているであろう強者。

演奏は1か月後。
絶対無理だ。ピアノは富裕層の嗜みであって一般民衆の僕なんかにできるわけがない。
ましてや週に2時間しかない音楽の時間でまともに弾けるようになるはずがない。
いけない。
このままでは辱めを受ける。

そう思いながらも頑張って練習してみましたが一向に上達せず、練習で合わせるたびに自分だけがみんなの音から取り残されていく。
音符が読めない。
音が聞き分けられない。
両手を別々に動かすことなんてできない。
僕だけが違うことをしてしまっている。
集団行動がとれていない。
みんなに迷惑をかけている。
何だか息苦しい。
どう考えても演奏が成功するには僕はいない方がいい。
そもそも僕だけ弾けないことが恥ずかしい。

水の中じゃないのに、溺れているような感覚。


———結局、演奏当日はズル休みをしました。
僕は逃げました。
当然僕がいなくても演奏会はつつがなく進んだそうです。

ついぞピアノを弾くことができなかった劣等感にズル休みをした罪悪感が加わり、
「僕は下手に音楽なんかに関わるべきではない。なぜなら才能が無い」というトラウマを作り出しました。

他人にとっては「そんなこと……」と思うようなことでも、当時の自分にとっては衝撃の体験でした。
当時の僕は「自分の目に見えるもの」でしか判断できなかったため、他の5人が「ピアノを弾けている」という目に見える事実に対して強い劣等感を感じました。
それが、目に見えない努力に裏打ちされたものだとは到底理解できなかったからです。

その後、僕は音楽・楽器とはなるべく距離を置いて生活を送りました。
リズムがとれないので音痴ですから、カラオケも苦手でした。

ですが、あろうことか社会人になった今、突然ピアノを始めました。
岸見一郎さんと古賀史健さん共同著書の「嫌われる勇気」を読み「目的論」を試してみたかったからです。

画像1

本書は、アルフレッド・アドラーという心理学者が提唱したアドラー心理学(個人心理学)を、哲人と青年の対話形式によって教え説いていく構成になっています。
その中で、アドラーの言葉を借りた哲人は言います。

トラウマは存在しない

「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック——いわゆるトラウマ——に苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである」

本書では、これを「引きこもりの友人」という例で説明しています。

青年の友人は、自宅に引きこもっています。

青年:
彼は部屋の外に出るのが怖ろしく、一歩でも外に出ると動悸がはじまり手足が震える。しかし、その理由までは窺い知れず、両親との関係あるいは学校や職場でのいじめがトラウマになっているかも知れない……。
いずれにせよ「原因は分からないが、過去のトラウマのせいで現在彼は引きこもっているのだ」

と青年は主張します。

これは原因論と呼ばれ、世界は「原因と結果」という因果律により決定されているという考え方です。

僕らからすると至極論理的な考え方のように思えますが、
哲人はこれを明確に否定します。

哲人:
仮に『外に出られなくなった原因が幼いころの家庭環境にあったとして、両親から虐待を受けて育ち、愛情を知らないまま大人になっていった。だから他者と交わるのが怖いし、外に出られないのだ』とすると、
両親から虐待を受けて育った「原因」を持つ人は、全て等しく外に出られないという「結果」になるが、そうではないでしょう。

と青年を説得にかけます。
さらに、

哲人:
現在、そして未来はすべての過去の出来事によって決定済みであり、動かしようのないものであるという「原因論」の住人であり続ける限り、我々は一歩も前に進めません。

と哲人は語気を強めます。

原因より目的に目を向けようよ

哲人は続けます。

哲人:
仮に友人が「自分は両親に虐待を受けたから、社会に適合できないのだ」と考えているのだとすれば、それは彼のなかにそう考えたい「目的」があるのです。この場合は、「外に出ない」という目的のために、不安や恐怖をつくり出している。

ここで皆さんも疑問に思うはずです。
いや、そもそもどうして外に出たくないのか?そこが問題であるはずだ、と。

その答えは例えば、「親の注目を集めるため」です。
家から一歩でも外に出てしまうと、誰からも注目されない「その他大勢」になってしまいます。このままでは、凡庸な私を大切に扱ってくれなくなってしまう。
だから「外に出たくない」という目的を作り、その目標を達成するために不安や恐怖の感情を作り出している、と哲人は言います。

このまるで人間の感情を否定するかのようなこの「目的論」は、ユングやフロイトの唱えた因果律を主軸とする「原因論」に真っ向から対立するもので、19世紀末当時は中々理解されるものではありませんでした。

ですが、このアドラーの「目的論」は人間の感情を排除するという考え方ではなく、「人は過去の原因によって行動するのではなく、現在の目的に向かって行動する」という点に意義があります。

僕の場合

これを僕のピアノの事例に当てはめるとこうなります。

「お前が音楽を避けているのは、音楽にトラウマを持っているからじゃない。お前が音楽を避けているのは、音楽を避けるという目的が達成されることによって守られるものがあるからだ」って感じです。
音楽を避けることによって守られるもの、それは例えば「音楽センスがないと思われない」だったり、「音痴なことを知られない」というものです。

つまり、アドラーは、「お前は過去のトラウマを隠れ蓑に、小さい自尊心を傷つけないように逃げ回っていただけだ」と主張するわけです。

ここで僕は、今まではトラウマのせいで音楽に関わらないと思っていたのが、自分が勝手に作り出した目的によって音楽に関われていないだけだったと知ったのです。

要するに、人のせい(トラウマを作り出した社会的な関わりのせい)にしてたけど実は自分のせいだったんだよ、ということですね。

この思考プロセスを踏まえたら問題解決は簡単です。
じゃあ目的を変えよう!ということですね。

「毎日音楽に触れる」という目的を新たに作りました。
妻のピアノを借りて毎日1時間ほど練習。
最初は楽譜が読めないのでつまらないし、両手は一緒に動くしペダルを踏むタイミングはグチャグチャです。
でも毎日継続しているうちに、徐々に生活の一部になり、今ではピアノを弾かないとそわそわします。昨日できなかったことが今日できるようになるのは、どんな些細なことであれ楽しいです。

結果的に、僕にとってこの「目的論」は画期的な考え方でした。
心理学者、すごいです。

本日の結論です

・トラウマは存在しない
・人は原因論に立つと一歩も前に進めない
・人は誰でも目的に沿って行動している


「過去に起きた事実のせい」にすると、今の僕らにはどうしようもできません。
過去の事実は変えられないからです。
今できるのは、未来に向けてどう行動するか。

過去の事実を今の自分がどう捉え、未来の自分に向けて今どう行動すべきかを考えるのは、他の誰でもない自分自身ですもんね。

これは、
やらない理由やできない理由を探すより、できるようにするためにはどうするか?を考えることに似ている気がします。

後ろ向きより前向きに!

それではよい週末をお過ごしください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?