あそび と よゆう
「あそび」ということが、けっこう小さい時から苦手で。
あ、まぁね、うん、友達が少なかったってのもあるんですけど。
一方で、エンデの『モモ』にでてくる主人公のモモは、すごく遊びがじょうずです。
時間泥棒たちが、モモの気をそらすためにしゃべる人形とかの高性能なおもちゃを渡します。
だけど、モモはもっと単純なもので遊ぶ方が好き。
高性能なおもちゃは、確かに楽しいけれど、遊び方は数通りしかない。
一方で、単純なものには無限の可能性が広がっていて。
モモが住んでいる円形劇場は、沈没しかけの船にだって、何にだってなる。なれる。
遊ぶ人たちの想像(創造?)力次第で。
このお話を読んだとき、モモはすごいなぁっておもった。
多分小学校高学年から中学生時代だと思うけど。
こういう「発想力」だったり「発想の転換」みたいなの、私にはできん。
勉強できるのはええとして、頭カチコチやなって。パズルとかも苦手やし。
ある物体から与えられた情報(アフォーダンスというやつです)に縛られて人間生きているわけですが、それから逸脱する行為を探すことが、まぁぁぁぁぁ苦手で。
やっぱり、「正解」が与えられるとそれにのっかりたくなるし。
それが安全で安心だもんね。
だけど、遊びがじょうずなモモみたいになるには、この思い込みみたいなのをいったん置いておいて、正解とか、上手いとかはすててやってみるのが大事なんだろうな、と
※あ!ちなみに!アフォーダンスという概念というか、それをつかって知覚を説明しようとする取り組みは非常に非常に興味深いので!!!勉強します!!!※
じゃあどうやったらええねん、という話なのですが。
結局心の余裕なんじゃね?と、思いまして。ありきたりですが。
何かを組み立てるときに、採寸通りぴったりじゃなくて、組み立てる際に若干余裕を持たすときに、「あそび」をもたす、って言いますよね。
語源とかちゃんと調べたら、もしかしたら違う語源を持ってるのかもしれませんが、とにかく「あそび」は余裕が持たせられる設計だから生まれるんですよね。
「あそび」が苦手な私は、人生に余裕がないんだろうな。
忙しいとか、そういうことじゃなくて。
正解ではないものを認める、というか、絶対的な正解なんて存在しない、ってことを十分に理解というかしみこませたうえで(理解はしているつもり)、たくさんのいろんな「正解」を見つけていくことができる心の余裕、という意味での余裕、です。
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