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人の職業を笑うな。

この記事は2014年2月(もう6年前!)に僕のamebaブログに書いたものです。当時はまだ一企業のサラリーマンで、ヨレヨレのスーツを着て満員電車に揺られていました。「記事を書いてお金をもらう」なんて到底不可能だと思いながら、平日帰宅後や土日に書いていた記事のうちのひとつです。この記事をきっかけに編集プロダクションに声をかけられ、ライターの道に進むことになりました。該当のamebaブログは最近閉鎖したのですが、自分を救ってくれた文章として、この記事はここに残しておくことにしました。


先日、用事があって実家の隣町まで出かけたら、通りがかったコンビニで友人がレジ打ちをしていた。彼の家からの距離を考えると、そのコンビニまで徒歩で行けるかは正直あやしい。

彼は、自分がコンビニでレジ打ちをしているのを他の誰かに見られたくなかったのかもしれない。



ある日、事務職についている妻が仕事の愚痴を吐いた。これまで妻がやってきた仕事のほとんどが機械化され、近い将来、別の仕事につかされそうだという。

5年も務めた仕事なのに、ようやく慣れてきた仕事なのに、本当は自分がいなくても回る仕事だったのかもしれないと、彼女は悔し涙を流しながら言った。



先週、想定外の降雪量により片っ端から麻痺していった交通機関を擦り抜けて、なんとか会社に辿り着こうとするサラリーマンをたくさん見た。

その一方で、「雪が降ったから危険なので家で仕事をします」と連絡をいれ、温かいブランケットと紅茶を飲みながらゆったりと仕事につく友人がいるのを知った。

世の中の正しさは、どちらに向いているのかを一瞬考えた。



この間は、「小さい頃からの夢を叶えたい」と、大手企業から転職して小さな制作会社に入った知人の話を友人づてに聞いた。

彼は、転職先の制作会社も2ヵ月ほどでやめてしまったという。



数年前より、「社畜」という言葉が当たり前に聞かれるようになった。

「会社のために働くことはもう古い」というカルチャーが産まれてきていると思った。



最近、フリーランスとして働く友人が増えてきている。

彼等は、会社の名前がなくとも生きていく自信とバイタリティがあり、福利厚生よりも美しい自由を欲しがったのだろう。


昨日、「店長」と書かれた名札をつけた男性が、寒空の下、居酒屋の前で必死に客寄せをしていた。

どれだけ無視されても声をあげ続けている「店長」に熱いものを感じた。



今日、どんな仕事がダサいとか、どんな仕事がカッコイイとか、そんな概念は捨てるべきだと感じた。

自由に働いた結果、経済的自由は失われたかもしれないし、健気に通勤している結果、平日の空いているディズニーランドに行けることは滅多にないかもしれない。

それでも働いていることは素晴らしいと思う。

憧れた仕事でなくても、褒められた仕事でなくても、お金をもらって動いている以上はどこかで誰かの役に立つことをしているはずだから、そのこと自体に自信を持って良いのだと思う。

働かないことが悪だとは言わないけれど、働くことは、良いことだ。
そして働く内容に、ダサいとかカッコいいとか言うのは、ダサいことだ。

アイツの方が給料がいいとか、アイツの仕事は楽そうだからいいとか、色々あるかもしれないけれど、まずは働いている自分を褒めてみる。

そこから何かが始まるかもしれないという気がした。



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