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サンキン

平成6年の入門の噺家は、上方落語界では、私を含めて一番人数が多い。

そして、昭和46年亥年生まれの人数も一番多い。

ーー当時は全然落語ブームでもなかったし、

私が、

落語家になります、桂吉朝師匠のところへ行きます

と言うたら、

「?ラクゴカ?」「キッチョウ・・・?」

という反応しかをもらえなかったあの時代。

だのになぜこんなに入門者が多いのか、

不思議である。

そんな大勢の芸人たちを長年まとめてくれていたある噺家がおりました。

桂三金。

大学では二人とも落研、違う大学ではあったが、同級生。

思い起こせば、落研当時、私はABCの公開番組に出た。まだ桂吉弥の名前ではない頃。

「笛屋」という創作落語を演じた。

彼はその時のことを、その時演じた「笛屋」のことを、プロになって何年経っても覚えていてくれた。

実際、現場では、持ち時間が少なかったので、なんとか苦肉の策で、古典の落語の「道具屋」を改作したものであったのだけど・・・。

ーーーーー「お前また遊んでるっちゅうことを聞いたんでな、仕事を世話してやろうと思ってやな。まあわしの内職みたいなもんやけど」「おじさんのやってる内職、ああ夜店でやってる古道具屋か」「そうや、行ってみるか」「面白そうでんな、行きますわ」「いつから行く」「そうでんな今日から行きますわ」「今日からとはまた急やな。まあ行ったらええわ。思い立ったら吉日というさかい」「そうそう、出た日が命日とも言いまっせ」「げんの悪いこと言いないな。けったいなやっちゃで。そこに風呂敷包みがあるやろ、道具が入ってるねん。こっち持っておいで」「色々ありますなあ」「うん、色々あるけれども、今日は笛だけ持っていき」「え、この竹笛だけ?」「そうや・・・時間の都合やねん」「へえ・・・ほな行ってきます」

と夜店へ。

 「おい道具屋、ノコギリ見せてくれ」「掛け軸はありますかな」「塀にもたれた電気スタンド」「パッチあるか?」

とお客さんが(普通の古典落語の通りに)来るけれども、

「今日は笛しかおませんねん」

と段々半泣きになってくる男。そして最後に

「笛を見せてくれ」

と客がやって来て、、、、オチとなる。ーーーーー


それを彼は昨日のことのように、

『時間を短くするという都合で、おじさんが笛しか持って行かせへんのは、落研ならではの遊びやけど、
最後の客が「笛見せてくれ」って来た時の「ああ!待ってましたんや、あんたのことを」って喜ぶ男の姿が頭の中に浮かんでさあ、それが、面白かった、なあ』。

ーーーようそんなこと覚えてるなあ、、、と照れながらごまかしたけど、嬉しかった。

 落語家として駆け出しの頃は、余裕もなかった。ましてや他の、しかも同期の落語を誉めることなんて私にはできなかった。自分の方が絶対に負けてないわと去勢でも張っていないと、不安で不安で仕方がなかった。

でも、彼は、他人の落語を誉める、

私が高座でしゃべってると、舞台袖で座って、ほんとうに嬉しそうにケラケラ笑ってた。私だけじゃない、先輩も後輩も関係なく、人の舞台を見ていた。そして「こんなギャグ考えたんやけど、どう?」なんて提案する。

ほんと、落語が好きやからやったんやなあ。

彼ならこんな今の状況下で、どう落語をお客さんに届けるのか、芸人を続けるのか、おもろいアイデア出してまとめてくれてたやろうなあ。

「吉弥っ、なんかやろうぜ!」といつも誘ってくれていたーーーーーーー。


繁昌亭も動楽亭も、喜楽館という立派な寄席小屋もナーンにもない時代。自分達で落語をやれる場所自体を探してたあの頃。

20年以上前に、メンバー、三金、文鹿(当時はちゃん好)、米紫(当時・都んぼ)、かい枝、そして私で「落語家戦隊・落語レンジャー」という勉強会も始められたのも彼のおかげやった。

他にも、亥年生まれのもんばかりを集めて、「梅田の亥会」も何度かやった。これは落語「池田の猪買い」のシャレでタイトルをつけた、それもである。


ーーー「そうやなあ、ほな、やろか」と返事すると、

「よっしゃ!明日の10時にあそこに集合な」と電話を切った。

お決まりのように、梅田の地下街にある喫茶店『田園』の店内の螺旋階段を降りたところで、2時間3時間と喋った。

『田園』の近くを散歩してると、その当時と2年前に突然いなくなった日のことを思い出す。

ありがとう。またオレがそっち行ったら、一緒にグダグダお茶しながらしゃべろうや。

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