2021年8月21日の日記
ちゃんと一週間毎で日記書けてんじゃん。
「偉いねえ~」(CV能登麻美子)。仕事で褒めが生じることはなくなったので、思い切りほめられたいという欲望が出てくる。
俺は撫でまわされる犬になりたい。具体的に言えば、大金持ちの大型犬になりたい。仕事は慣れてきたものの初々しさの抜けない新米メイドにガシガシとなで回されたいものですわ。
なあ、皆もそうだろ?
さて、日記を書いていくぞ
日記は朝に書けない
われわれは希望によって約束し、怖気によって約束を果たす。
ラ・ロシュフコー『箴言集』
日記って書けないまま寝過ごすことが多々ある。しかし、朝にペンを取ってもと思ってもなかなか書けない。
というのも、朝は一日の始まりの時間であり、これから一日何をしようと色々と算段する希望の時間でもあるからだ。朝は一日の始まりの時間であり、可能性であり、希望なのだ。
対して、夜は憂いの時間である。息も絶え絶えに過ごした一日を反省する時間なのだ。布団に入ってから入眠するまでの間、自分で断罪し続けるしばらくの憂いが、私を一人にする。
だから、人々は夜に憂うのだ。そして、その成果物こそが日記なのだ。私が、一日を憂いた結果。それが日記と呼ばれるものだ。
日記は一日の出来事や感想をまとめたものだが、どれだけ客観的であろうと意識しても、「日記を書く人」の主観が含まれる。その人なりの振り返りや反省が含まれる以上、そこにはどうしても憂いの色が帯びてしまう。
そして憂いの思考の残置物こそが、日記なのだ。
そういう意味では、私は一日をつぶさに観察したことはほとんどない。いつだって遠巻きに俯瞰していた。私の日記は、その時その時の反省で終わっている。
だから、日記を書いているからって一日を丁寧に見つめ直す能力が上がるわけではない。自己反省の能力だけが上がるだけだぞ。
ケツに血
8/21の昼過ぎ、トイレで尻を拭いてたら、トイレットペーパーに血がついていた。ケツの赤紙。
私のケツが血を流しているのは、どうしてだろう? ストレスか? 生活習慣か? それとも単にでかいものをひりだしたものだけなのか? なんにせよ不健康なのは間違いない。
痛みのない出血は時限爆弾を連想させる。これから私の体調に変調が現れるかもしれない。いや、もしかしたら取り返しのつかないところまで……
これからも私は、自覚のまま出血し、自覚のないまま怪我をする。こうしたことの積み重ねで私は斃れるのであろう。
幼少期の時点で既に人生のねじは巻き終わっており、あとはそれに従うだけだ。
ねむ。ねよ
終わり~~~~~~~~
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