美少女の甲論乙駁

 先日、友人と「美少女ってどんな人だと思う?」とで質問してきたが、意見に齟齬が発生した。その齟齬を書き残す。

 私の考える「美少女」は「制服がよく似合う女の子」、「あまり現実を思わせないような女の子」と答えたが、理想が高いと言われた。
 小説や劇で現れる美少女によく使われるの表現、「この世とは思えないほど」や「絶世の」という形容だった。強烈的な美は時として現実を超越する。

 美とは唯一現実を超えられるものであり、圧倒的な美しさを持つものは王のように振る舞うことができる。構図のために骨格を無視するマニエリスムや、直感的美のために写実性を無視するシュールレアリスムは、「美は現実より優先されるべきだ」という主張に基づいているとわかる。

 さて、「美>現実」の方程式を演繹させると、『美少女は現実的であってはならない』に挿げ変わる。美少女は仮想空間に住むイデア的な存在と認識するようになる。そうして美少女は神・天使などの観念的な存在になり、美少女を語るのは神を論ずるぐらい難しくなる。

 そのため、私が「美少女」という言葉を語るときは、どこまで現実的なラインに着地しない。仮に着地しても「制服のよく似合う」、「白いワンピース」がよく似合うなど、とにかく情緒重視の「感傷マゾヒロイン」に落ち着いてしまう。
 理想が高すぎる、現実を見ろと言われる。しかし、それは「お前の神は現実的ではない」と言うのと一緒で、要領の得ない反駁である。



 一方、友人の考える美少女とは、美しく思える女性を指す。

 ここで押さえておきたいのは、「どんな女性を美しいと思えるか」という点である。つまり、友人はどこが美しいと感じるの? その感じる基準はどこなの? と聞いているのであり、結局性癖談議がしたかっただけなのだった。
 もっといえば、この質問の陰には「どんな人と付き合いたいの?」という疑問が隠れているのであろう。この疑問を見逃して「現実を超越する人」と応えるのは、友人の期待を裏切ることと同義なのだろう。もしかすると、「私は何も現実を見ていません」とバカを晒していたのかもしれない。

 さて、当初の質問に立ち返ろう。
 「美少女ってどんな人だと思う?」、私はこう答えるべきだった。
 「貧乳の人」

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