今の日記(2021年4/1~4/13までの記録)
・雨が降り続いていて寝られない。寝るまでのあいだ、日記を書こう。ウイスキーを二口呑んだ。1m後方ではスマホがYoutubeの音楽を再生している。
・とかく社会人になった。社会は様々なものを拘束する。特に時間への拘束力が物凄く、簡単に夕方まで人間の時間を奪うのだ。日が暮れるのを見て「私に能力があればもしかしたら15時くらいから悠々自適に過ごせるのかもしれない」とも思ったが、それは単なる怠慢に違いない。
・さて、4月上旬の自分はサラリーマンになって何を感じていたのかを(偶々)書き残していたのでここに写しておく。
新社会人になった2021年4月、私はただひたすらに怯え、震えていた。
何に怯えているの?
さあ?
わからない。ただわからない。そうだ、私はわからないことに怯えているのだ。しかし、この怯えは長年の社会人生活でいずれくる理解によって解消され、なくなるだろうか? いや、消えないだろう。
”このどうしようもないわからなさ”はいつだって私を拒み、私が現実にいる感覚を失わせる。不理解に対峙しても、対処できるわけもない。ならば、”わからない”感情に寄り添おうと思った。
──デスクの一角で、気が気でないまま坐っていた。なぜ、この社会人は気が気でないのか。それは社会人としてのアイデンティティがまだ作られていないからだ。これから多くの失敗や挫折、成功や成長と共に社会人としてアイデンティティを持ち、私は私となっていくのだろう。それは一つのっ正解だといえよう。それは確かに正解だ。
ただその正解は、猫舌の人が伸びてくたくたになったうどんを食べて「おいしいおいしい」というようなものだ。社会人として一人前になるまえより私は私なのだ。からそう主張しなけれならない。社会人としての研修を受け、実戦で多くの失敗を重ねたうえで、社会のルールが朧げに理解しだし、それから社会に自分の居場所を見つけ出してやっと「私はここにいた!」と自分が若田ときには30を超え、着古したスーツを着る中年男性になってしまっている。それは歴史の異物を見て、「あれが私だ」と懐かしむようなもので自分への賞味期限はとうに過ぎている。
ある手記を引用する
「大学生という4年間が私の人生に注がれる。されど私の人生は薄まらなかった。しかし、次に注がれたサラリーマンという40年間はあまりに膨大で、わたしの人生を大変希釈し、侵食する。
仕事は私の趣味や時間や文化的嗜好だけでなく若さや健康まで奪い。そうして、仕事は私を貪って丸々と肥えていくのだった。肥えた仕事は私にあるお返しをする。それは権力だ。長年仕事に仕えることで、私は仕事から権力をもらうのだった、責任という代償を伴う権力を。そうして仕事は私を侵食する」
まあ一言で言うのなら、40年という長い社会人生活に茫然としていた。この問いに答えることは、今の自分ではできないので10年後くらいに返答してもらおうか。
(あー、でも30歳の自分なら「社会人として生活していくうちに自分というものがわかった」と、まるで社会人生活に意味はあるかのように言うだろうが、そうじゃないんだよな。そんな言葉は社会の毒に犯されて薄っぺらくなったから言える言葉なんだよな。)
・友人がとても良いブログをあげてたので、追従しようかな。
こうした少女が現れる幻想は私もよく見る。調子がいい時はほぼ同時に2人の少女が見えることがあるくらいだ。あまりに共感しすぎたから似たようなツイートをしてしまったくらいだ
(気恥ずかしかったから深夜に予約の投稿ボタンを押した)ウイスキーを飲んで潜っていこう。日記には私しか現れないのだから……
さて、話を戻そう。私も時折少女を幻視する。幻視の条件もモペゾムドモヤンにおおよそ一致する。
条件、それは私が何か現実の法則によって欲求を妨げられていること
条件、私が破滅的な蛮行による既存価値の破壊を期待していること
条件、物理的または社会的に死に得る機会が眼前にあること
少女は私のやりたいことを代行し、奔放に暴れ、そして死体を曝す。
どの幻視も共通するのは”自分の隠している欲求や、その結果を映している”という点だ。1つ目の条件は書いてある通り、わたしの妨げられた欲求を叶えている。2つ目の条件は既存価値に抱く私の期待や疑問を、少女が代行している。3つ目の条件は私の希死念慮に、少女が変わって叶えている。
また、少女が必ずしも死亡しないのも一致している。
赤信号の信号や踏切に入り、四肢を飛ばしたりグモったり幻影が多いのだが必ず死ぬわけではない。一番些細だった事故は、車を見て交通事故を想起しても、少女が取った行動は「走行する車のタイヤに足を差し入れて足の甲の骨を骨折する」ものだった。事故には死のイメージがつきものだが、死が行使されないまま少女は事故にあうこともある。
ここからは、モペゾムドモヤンとの違いだ。それは一点に尽きる。
私の見る少女像は、場面に合わせて自由自在に変わるのだった。高所から飛び降りる少女は長髪でセーラー服を着ていて、駅から線路に飛び降りる少女はショートカットでパーカーを着ている、大通りにはブレザーを着た少女が車の往来に合わせて身を投げ出す。
私は共感を一顧だに寄せずに、少女だった物を画のように見て受け取る。少女たちはポーズとして現れる。個人の嗜好が見て取れるような装飾がなかったり、版権のキャラクターが一切登場しない。私の視覚にあらわれる少女はどれも人格を持たない。人格を持たないことで少女は、私に理解され・消費されることを拒み、渾然と存在するのだった。一方私は少女の存在に圧倒され、一日を棒に振る。
もう1時半じゃん、色々書いてやろうと思ったけど寝る!
終わり~~~~~~~~
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