2021年4月26日の日記

・二日も続くだなんて喜ばしい限りだね。と言っても書くことはないいんだけどな。

1.カフェインを取ったぞ!

この日は、カフェインのを錠剤で1g(かなり多い)摂ってから会社に行った。すると普段の耐えがたい眠気が全くやってこない。身体が心に追いつくってこういうことなのかと思った。毎日やったら体に悪そうだから、頑張りたいときに錠剤を服むことにしよう。

2.音よ、留まれ、流れるな。

 音は気を抜くと簡単に過ぎ去り、耳から零れ落ちる。そうして逃した一瞬を拾おうとしても変えることはない。音よ、帰ってこい。時間よ、戻ってこい。

 どうして私が音を取りこぼすのかを説明するには昔話が必要になる。

 疎外されていないかと過剰に気にしていた幼少期の私は、夜の布団の中で「あの会話ではどうやって返せばよかったか」と反省を繰り返していた。躓いたりどもったりした会話を脳内で何度も反芻する。言葉を言い換えたり、反応自体を変えたりして、「こうすればまともな返答ができるんだろうな」という納得ができるまでやり直す。そうして数十回も同じ禅問答をして、安心を得てから眠ったのだった。大人になった今ではその疎外感に悩むことも消えて会話を反芻することもなくなったが、今の私に十分ともいえる爪痕を残した。

 さて、会話を繰り返す悪癖は私にいくつかの性質を与えた。ひとつは一瞬に固執する性質であり、もうひとつは連続性を見失う性質だった。
 一瞬に固執する性質は明快に説明できよう。家に持ち帰ることのできる会話の数は限られているからだ。家に持ち帰っても明確に思いだせるほど鮮明な記憶は、どうがんばっても1個や2個が限界だったからだ。
 連続性を見失う性質は少し説明が難しくなる。何度も何度も、私が安心するするまで続くこの問答は、寝る直前になっても続くことがあった。1,2秒にしか過ぎなかった会話は何分、何十分には引き延ばされる。話しかけられた一瞬が何倍にもなって私の一日を少しずつ蝕むのだった。

 一瞬を反復する癖がついた私は、「一瞬と永遠は結びつくものなのだ」と感覚的に知った。1秒も1時間も”時が流れた”という時点で殆ど同じであり、量的には違いがあっても感覚では違いはない。だって、昼の一瞬が夜のほとんどを占めることがあったのだから。私の感覚下では、夜の間に昼が射しこまれることも不思議ではない。

 そのため、私は意識が連続していると感じたことはない。時間はコマ送りのアニメや堆積する砂時計の砂粒のように、積み重なった一瞬一瞬として見える。アナログな連続ではなく、デジタルな断絶の集合体であるかのように視えていたのだった。その断絶した時間の間隙に過去や不安が挿入されて、現在は無意識の状態になるということも珍しくはなかった。何か曲を聴いていてもサビの時は無意識になっていて、結局私が聴いていたのはAメロとBメロとアウトロだけだった、ということもしょっちゅう起きるのだった。
 無意識が射しこまれて何も思いだすこともないまま、意識を現在から引きはがされる癖となった私にとって。一瞬しか聞くことのできない音声というものは点滴になった。空白の意識の瞬間にも、音は流れて指示が飛んでいく。

 音よ、流れるな、とどまれ。さもなければ文字となって残り続けろ……

今日書いたことは全然理論も何もないな。なんか私がヤバい人みたいな日記書いちゃったよそろそろ寝るか。

終わり~~~~~~~~

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