2021年8月15日の日記

日記は過去のことを書かねばならない。わざわざ過去を語る事は虚しいものだ。
しかし、未来のことを書くのはもっと虚しい。

 私は私の未来を全く信頼していないから、どんな未来になるかより、過去にどんなことがあったかを考えてしまう。

 こんな未来への諦観を書いても、未来の自分はこんな箴言を持ち出したりはしないだろう。だってこれは私が考えた箴言だし。

 というわけで、近況を書くぞ。過去を顧みるぞ! 

映画たくさん見た

 最近映画をよく見ている。

 ここら1,2週間でみたのは「竜とそばかすの姫」「少女歌劇レヴュースタアライト」「劇場版パトレイバー」「劇場版パトレイバー2」「戦場のメリークリスマス」あとアマゾンプライムで「シンエヴァンゲリオン」
 振り返ると、古い映画が多いな。古典的名作を見たということだね。 (でも古典的名作だから見る、という短絡的な動機はただのスノビズム・権威主義的で、”私が見たい”なのかと言われると”そうでもないな”。私が見たいのは皆が見てるからなのか?)

 この中で面白かったのは、「少女歌劇レヴュースタアライト」「劇場版パトレイバー2」「戦場のメリークリスマス」かな。滑舌の良い北野武が見れるのは「戦場のメリークリスマス」だけ!

 映画館で見る映画は没入感があって良い。私が映画をみる。登場人物を窃視する。窃視するうちに私の主体は希薄化し、登場人物に移りゆく。映画は終わり、銀幕が上がって照明がつく、明かりがつくと私の体は輪郭を取り戻す。私は夢から醒めたように、鞄を持って映画館から立ち去る。
 そうして、夢を反芻するかの如く、映画を反芻する。
 こういった没入感は映画館でしか得られない。テレビを没入して見ることはそうそうない。況してやネットは常に”見る私”が存在する。暗室の中で巨大な映像を見ることは、映画館でしか見れない特権なのだ。(こんど部屋を暗くしてネットフリックスでも見ようかな。……いや、キモオタクと全く同じ構図になるな、やめとこ)


私は書いたことを喋るぞ!

 この前友人たちと話した時に、「どうしてネットで既に書いたことを改めて話すのか」という話になったことがある。既にTwitterで発言済みだから、現実で話すと同じことを二回話している人になる。

 その時は2人の友人と話していた。友人AはTwitterやはてなブログに書き記す人で、友人Bは全くネットに書かない友人だった。この時、私と友人Aが「どうしてネットで既に書いたことを現実で話してしまうんだろう」と話し、友人Bは彼なりの答えを出してくれた。

 私とAの「ネットでは誰かの返事は期待していない」という意見に、Bは「ネットでは自分で消化するために書いて、現実では友人の意見が欲しいから話しているんじゃない?」と返ってきた。私は(そうでもない)と思っていたが、反駁できなかった。

 結局、私とAは「甲斐がない」という結論になって終わったが、それは何の甲斐なのかは言えずに終わった。

 このままでは消化不良なので考えていこう! 友人Bの意見に私は(そうじゃない)と感じたのか。そして、なぜ「甲斐がない」のか顧みるぞ!

 まず友人Bの意見は至極真っ当だ。自分もBの立場なら同じように「友人に共感してもらいたいから、また話しているんじゃないの?」と話すと思う。でもどこか納得できないんだわ……なんでだろう。

 正直、インターネットで文章を書けたなら、その時点で十分消化は済んでいる。だから、とりわけて友人のアドバイスが欲しいわけではないんだよな。(本当に欲しいなら明確に欲しいと書くと思う)

 そこで思ったのは、友人に会ったという機会を逸したくないからだと思う。わざわざ現実で会ったにも関わらず、話せるネタを持て余したまま別れてしまうのは口惜しい。だから、相手が知っている話題だとしても、私は話してしまうのだろう。

 友人よ。君はオチまで知っている話には、もう飽いてしまっているかもしれない。それでも話してしまうのは、君と会えたことを後悔したくないからだ。「甲斐がない」というのも、話せずじまいで終わってしまうのは、会った甲斐がないのだ。

ということだな。あの時納得できなかったのは、こういう事なのだろう。



ねむ。寝ます。ポヤシミ~~~~~~。

終わり~~~~~~~~


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