「名取さな」の再誕;

※この記事は2023/3/7に開催された名取さなバースデーイベント「さなのばくたん。-ハロー・マイ・バースデイ-」の感想記事です。本記事の読者は同イベントを視聴している前提で書いています。

身構えのオタク

今回のばくたんが“ヤバそう”なことは前から分かっていた。
情報解禁の瞬間に、これまでと違う雰囲気のキービジュ、「ハロー・マイ・バースデイ」という意味深なサブタイトルから「何かやる」と感じ取っていたし、その後キービジュに入院着姿があること、英題「HELLO AGAIN MY BIRTHDAY」にAGAINが含まれることなどが明らかになり、名取の過去に対する言及が予想されていった。さらに開催日が近づくにつれ、パラレルワールドというあらすじや、「活動5年間の集大成」といった発言が名取から出てくるなど、コンテンツとして大きな動きがあることが確定的になった。

そう、筆者は今「コンテンツ」と言った。設定された世界観の中で展開されていく物語。バーチャルYouTuberといっても色々いるが、こうした形態を維持しているのは今や名取くらいではなかろうか。名取さなは配信者でもタレントでもライバーでもない、「名取さな」というコンテンツであり同時にそのクリエイターである、と筆者は思っている。

「名取さな」コンテンツにおいて、過去(以下、「入院着」と表現する)が極めて重要な意味を持っていることは、ばくたんを見るような人には言うまでもないことだろう。ましてや最近特に言及を避けられてきた「入院着」に切り込むのは一大事である。しかし、活動5周年という節目にあってこの面での展開を進めるのは確かに十分あり得る話でもあった。

以上より、今回は開催前から内容の予想を重ね、かなり身構えて臨んだ。なので実のところ、今までの回より終了後のショックは少なかったまである。とはいえ今回の内容は「名取さな」コンテンツにとって極めて、非常に大きな意味を持つものであったので、改めて振り返って行こうと思う。

「名取さな」を構成する名取たち

「パラレルワールドの名取たち」は、皆「名取さな」を構成するそれぞれの一面であるという構造があった。何故か威張っているけど本当に国民(ファン)を楽しませることを考える王、友達(ファン)に嘘をついて欺き続けながらも仲良くあり続けるキョンシー、バカだけど憧れの学生生活を送る制服姿…。これはつまり、「名取さな」の構成要素を切り分け出して、それぞれを肉付けしたようなキャラクターであったと言える。

そして「パラレルワールドの名取たち」それぞれの悩みもまた、「名取さな」に対する比喩表現となっていた。終盤で答え合わせがあったが、「みんなを楽しませるためにはまず自分が楽しむこと」(王)、「自身の属性が嘘か本当かは重要ではないこと」(キョンシー)、「本当に大事なことは人それぞれであること」(制服)。森羅万象くんが「自分の悩みを見つめ直せ」と名取をパラレルワールドの名取たちの元に送ったのは、パラレルワールドの名取たちの悩みを解決することが、「パラレルワールドの名取たち」によって構成されている名取自身の悩みを解決することであるからだった。いわば「問題は切り分けて考えろ」をやったということである。

また、キョンシーのところで出てきた水平思考クイズの着ぐるみの例が比喩として重要だったと思う。みんなを欺き続けながらもそれ自体によってみんなを幸せにする着ぐるみ。改めて思い返すとバーチャルYouTuberというのは初期はよく着ぐるみに喩えられていたものだ。そしてそれは決して悪いことではない。着ぐるみの中に人がいることを知っている大人であっても、着ぐるみのショーやグリーティングを楽しんでいる実際がある。欺いているかどうか、属性が嘘か本当か、そういう場所に本質は実は存在しない。
「着ぐるみであること」に後ろめたさを感じていたキョンシー、そして名取自身が、それをよしとして受け入れたことが今回のハイライトの一つであったと感じるが、これはまた後述する。

「入院着」の“わたし”

パラレルワールドの名取たちの悩みを解決し終わり、最後にパラレルワールドではない元の世界線で登場した「入院着」の姿。それは「パラレルワールドの名取」ではなく、この世界線における名取さなの人格そのものであった。名取は慌て、戸惑い、不安がりつつも、「入院着」すなわち真の自分が抱える悩みが今までの「パラレルワールドの名取たち」の悩みと対応しており、既に解決されていることを知る。そして「ゆびきりをつたえて」の歌とともに、“名取は「入院着」を受け入れた”(構造的には逆が正しいのだろうが、ここは敢えて外から観測したものとしてこう表現する)。

少し話が変わるが、筆者は過去に東北地方太平洋沿岸の復興観光地、閖上を旅したことがある。そこで抱いた感想を旅行記にこう記している。

過去はどうすることもできない。その事実を乗り越える、などと外様の私が簡単に言えたことでは無いが、現地を見て感じたのは、この町はなんとか過去を「過去」として飲み込んで、「今」から明るく楽しい「未来」へ向かっているということであった。

https://note.com/natoriumu1023/n/nb8939550b8b7

コンテンツの解釈の引き合いに出すのはいささか不謹慎かもしれないが、重い過去を持つ存在に対して上記の感想は普遍的なヒントになると筆者は思う。
名取は過去を“飲み込んだ”。それが「ゆびきりをつたえて」の意味であったと思う。確かにまだ乗り超えられてはいない。しかし飲み下すことができたことで、次の一歩を今踏み出すことができたというのが、今回のばくたんの締めくくりであった。

「名取さな」の再誕、そして

「入院着」を受け入れたということは、これまで分離していた「ナース服」という外側と「入院着」という内側が融合したことを意味する。つまりは「名取さな」という人間の成立であり、再誕であると言える。「ハロー・マイ・バースデイ」というサブタイトルや、英題にAGAINが含まれていたのはこのことであったのだ。
同時に「ナース服」としての自分が「ナースではないかりそめの存在」であることを直視せざるを得なくなったが、それもまたキョンシーと着ぐるみの件を経て受け入れることができた。「本当のナースでないこと」は本質ではないと気が付いたからだ。

先程筆者は「欺いているかどうか、属性が嘘か本当か、そういう場所に本質は実は存在しない」と書いた。では本質はどこにあるのか。
たとえ話をしよう。あなたが同じ具材でサンドイッチをつくったとき、綺麗に挟めたものと少し崩れちゃったものができたとする。見た目の出来栄えという事実は確かに違う。しかしサンドイッチにとって大事なのは見た目ではなく、「食べた人が感じる味がおいしいかどうか」のはずだ。
ナースというのは職業であり属性である。それはこの文脈においては記号という表面的なものでしかない。「属性が嘘か本当か」という形而下的な事実情報は、サンドイッチで言う単なる見た目なのだ。
名取はこれまでずっと、ファンを癒し、笑わせ、楽しませてきた。だからこそファンは(味がおいしいから)名取を好きになったのであり、「ナース服を着ているから」という理由だけで真にファンになった人はただの一人も居ない。サンドイッチの味は、すなわち本質は、形而上的な営みにこそある。

名取はこのことに気が付き、信じた。名取が己の人生を自分で決めた瞬間を、「名取さな」の人生が大きく進んだ瞬間を目にすることができたのが、この上なく嬉しいことであった。

「さなコレ3」のライナーノーツ

最後に、「さなコレ3」のライナーノーツにも触れておきたい。「ばくたんは見たけどさなコレはまだ入手してないよ~」という方は以下のネタバレを踏まないようにご留意いただきたい。


名取の言葉に対する筆者の答えをここに書いておく。…正直な答えは、「どうも思わねえよ」である。
これもまた「名取さな」がコンテンツである故の妙なのだが、今まで名取は「入院着」の自分から目を背けてきた。しかしコンテンツ展開として「入院着」は初期からファンの前に提示されてきていた。だからこっちとしては「何をいまさら」なのだ。「入院着」の名取も含めて、どんな名取だって名取だ。こちとらそんなことは2018年から分かっているのだ。

もちろん「入院着」が「名取さな」に内包される存在として明文化されたことは、ここまで述べてきたようにとても意味深い。しかしファン側からの認識においては、元から名取という概念に「入院着」を含んでいたので実のところ特に変わりはなかった。なので敢えて名取の問いに対し答えを言うなら、何も心配することは無い、お前のファンはそんなことでどうこうなるようなヤワではない、というあたりであろう。

このショーがおわっても 続いてくストーリー

冒頭に書いた通り、今回は事前に予想を重ねて臨んだ。「入院着」への言及が確実視される中で、実は私は今回を以て「本筋の物語」を完結させるのではないかと考えていた。

名取はファンを元気にし、ファンに優しく、ファンと仲良くしてきた。もっと言えば、献血コラボでは本当の医療行為に際するものでないと掲げられない赤十字との共存さえ果たした。形而上的にはもう立派なナースだ、というのが筆者のスタンスである。
であればこそ、名取はもう「なりたかった私」になれているのではないか、と考えた。そうであればそれを示してしまえば、物語は完結させられる。その後は配信者としてやっていくこともできよう、そう思った。

しかし「名取さな」コンテンツはそうしなかった。物語は終わらなかった。
今回のイベントの最後に示されたのは、「なりたかった私になれた」ではなく「なりたかった私をみつけた」であった。そしてこれから、より「なりたかった私」へ近づけるよう頑張っていく、としたのだ。

このnote記事のタイトルは末尾にセミコロン(;)を付けた。セミコロンはピリオドとコロンの中間の意味を持つ記号だからだ。
そう、今回のイベントはピリオドでは決して無く、かつ大きな区切りであった。これからさらに「なりたかった私」を目指して、ストーリーは続いていく。上述もしたが、この新たなスタートが“再誕”であり次の一歩であるのだ。それが今年のばくたんであったのだ。

改めて、ハッピーバースデイ、名取。本当におめでとう。これからもよろしくね。


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