温文研「温泉 井戸端会議」話題提供資料

温泉史発掘-兵庫県川西市 多田(平野)温泉の史料から

          2022年4月17日(日)16:00~ on-line
          日本温泉文化研究会「温泉 井戸端会議」(その2)
          話題提供者:伊藤克己

1,話題提供の意図                                    “忘れられた温泉”と“忘れられようとしている温泉”と「温泉史の責任」

2,多田温泉(平野温泉)とは
所  在  地:兵庫県川西市平野3丁目
涌出原理:「有馬-高槻構造線」中の断層に沿って湧出(『川西市史』)
歴史概要:『日本歴史地名大系 兵庫県の地名』「平野村」項
【引用011】
当地の平野温泉は「摂津名所図会」「摂陽群談」に紹介された湯の一つで、安永9年(1780)に「多田温泉記」が刊行され、その効能を宣伝する。汲上げた源泉を温めて入浴した。文化8年(1811)に大坂東町奉行、文政2年(1819)には大坂西町奉行一行が多田院参詣のあと平野温泉で1泊。同8年には多田院御家人が湯元で会合。幕末の大火以後は寂れ、湯ノ町の地名を残すのみとなった。※文中の漢数字は算用数字に変更

3,多田温泉の現状(2007年1月)
■ スライド解説

4,資料と史料 明治から江戸時代へ
■ アサヒ飲料株式会社HP“「三ツ矢」の歴史”

【史資料01】
『日本鉱泉誌』(内務省衛生局編、明治19年刊)
多田温泉<川辺郡平野村字湯ノ町>
○泉質  炭酸泉
白濁無臭軟甘味ニシテ鹹ナリ其反応ハ弱亜兒加里性ニシテ煮沸スレハ強ク発砲シテ白垽ヲ生シ其性ヲ加フ1リートル中固形分5.310瓦ヲ含有セリ各成分及其量左ノ如シ(○中略)
温度八十七度、比重ハ摂氏六度ノ温ニ於テ一、〇〇五一六ニ居ル
○位置景况  本村ノ人家ヲ距ル北方凡一町余ニシテ海面ヨリ高キコト凡八十二尺余ノ地ニ在リ渓流ノ傍岩石ノ凹処ヨリ噴出シ瓢形ノ泉池ニ満チ余流渓水ニ合ス道路西北ハ有馬郡及丹波ニ通シ南ハ大坂路ニ達スル凡三里許皆車行ノ便ヲ欠ク
○浴客  平均一ヶ年凡五十人
○発見  安和年間ニシテ其漸ク盛ナルハ応徳中ニ在リト云フ
 <源満仲神ノ告示ヲ得テ此泉ヲ発見シ遂ニ殿閣ヲ多田荘ニ構造スト云>

【史資料02】『摂津名所図会』(秋里籬島著、寛政8年<1796>-同10年刊)
国会図書館所蔵『大日本名所図会』第1輯第6編摂津名所図会、大日本名所図会刊行会、1919年)
多田荘平野湯 平野湯本町の中間にあり。浴室の広さ方五丈許。中を隔てて男女を分つ。後に釜あり、是より薪を焚いて温湯とす。其時旅舎の人に入湯の期を触るる。町の北に薬師堂あり。其岸の本より水勢沸々として霊泉涌出す。其色鶏卵の解きたるが如し。上に釣瓶を設けてこれを汲上げ、筧より浴屋へ流れ通ふ。これを湯にして諸人浴す。又幕湯といふは、自身入浴の時、暫く他の人を禁ず。又此霊泉を旅舎へ運ばし、居風呂を建てて入湯するもあり。皆好に随ふなり。入湯の旅舎両側に建ちならびて一町余あり。家数二十四戸、何れも奇麗に座鋪を設けて諸方の客を宿す。入浴人こゝに泊りて、日毎に三度許浴し、其間は好に随ひ、碁・双六・生花・小歌・三絃の類を翫ぶ。旅舎の中にも枡屋が家には、鞠懸・数寄屋を設けて蹴鞠の興・茶湯の娯自在なり。鮮魚は尼崎より日毎に運送す。
夫平野湯は中華益陽県の金泉にひとしく、多田荘の山中に金山ありて、金取坑所々にあり。其脈こゝに通じて水精露れ、全き冷泉にもあらず、完き温泉にもあらず、其中間にして、涌出する事滔々たり。味は鹹く渋味を帯びたり。これを焚火して湯とし入浴す。或人〔多田温泉記〕を著し、其文に曰く、これ醴泉なり。光武帝中元年中醴泉出づ。京師の人これを飲めば、痼疾みな除くと東観記を引書し、又〔本草〕に醴泉出づる所は常処なし、王者徳茂し清平に至る時は、醴泉涌出して老を養ふべしと書けり。抑本朝に於て醴泉といふは、美濃国養老瀧・山城国醍醐水なるべし。多田の霊泉は金気に明礬の気味を兼ねたり。これを服する時は必害あり、又これを浴する時は功能多し。先第一陽明経の病因を治し、五臓六腑を養ひ、百脈を補ひ、骨髄を堅くし、筋骨を盛にし、皮肉を肥し、精気を増し、下元を培し、血海を潤し、耳目を明にし、心神を安じ、気憶を強くし、五積を治し、痰飲を去り、瘀血を除き、瘡毒を解す、其外諸疾に益ある事神の如し。里諺に曰く、原此金泉は、始源満仲公神明の告によつて感得し給へるより涌出す。中頃洪水に山崩れて滅び、又現れあるひは隠れし事数度に逮ぶ。元和年中より天下清平なれば、又現れ涌出す。元禄の頃官家に願うて浴屋を建て遠近こゝに入浴す。功験著しければ、日に増し繁昌の地となる事、是摂陽風土の霊泉なるべし。

【史資料03】『摂陽群談』(岡田徯志著、元禄14年<1701>刊)
蘆田伊人編『大日本地誌大系 摂陽群談』(雄山閣、1930年2月)
平野湯 川辺郡平野村祭神平野の社、衡門(トリヰ)の下にあり。土俗の伝云、往昔の温泉山也、今纔に水涌出す。然りといへとも、病を治すること古に同し。知る者設之沐浴す。<宗玄開之、依洪水退転せり。>

■ スライド解説

5,香川修庵の多田温泉批判-『一本堂薬選続編(「温泉」)』と『一本堂行余医言』
  ⇒ note「多田温泉のこと」(2020年10月3日掲載)および拙稿参照

6,馬淵医圭の『多田温泉記』
  ⇒ 拙稿「おわりに-附 多田温泉と源泉の「味」」参照

7,長久3年(1042)の「摂州細川荘絵図」
   史料形態:紙本著色 93.2㎝×190.2㎝
   所 蔵 者:大阪府池田市 池田市立歴史民俗資料館
   掲載図録:『聖域の美-中世寺社境内の風景-』(以下、図録)

【引用02】 泉万里氏(同館学芸部長)による「図録」の作品解説(同書107-108頁)
 十五枚の紙を継いだ横長の画面中央に、北摂の山間から南へ流れる久安寺川(古名は細川、もしくは塩川)を、画面下端に多田川(猪名川)を配置し、その周辺の寺社や集落を描く。画中には、同一人の筆で、方位と地名、寺社名などが記入されるほか、画面右下には、「摂州細川庄四至方至絵ズ也 長久三<壬|午>年十一月五日近衛院下司(花押)細川政国(花押)」と書かれている。長久三年(一〇四二)という年代や、人名はいずれも不審なものである。(○中略)
 裏書には、文和三年(一三五四)に、足利尊氏が湯治に多田院を訪れた際に、長尾山の楊梅を献上することが始まり、以来、楊梅の伐採は禁止されたと書かれているが、こうしたことを裏付ける資料は無い。
 細川郷は、遅くとも天文年間(一五三二~一五五五)ごろには、楊梅にかぎらず、植木の種苗を特産品としていた。おそらく、そのことと、この裏書が関係するのだろう。画面左側の山中の樹木には、名前が付されているものもある。本図は細川郷の植木業に携わる人々が、その生業の正当性を主張するために拵えた絵図ではないだろうか。制作時期は、天文年間かと推測する。(○中略)
 そのほか、画面左上には、細い川沿いに「風呂」と書かれた建物があるが、『摂陽群談』や『摂津名所図会』にある「多田荘平野湯」に相当するものだろう。塩気のある水が湧き、温めて風呂とし、江戸時代には一時、温泉地として栄えたという。明治以後は「平野水」という飲料水として親しまれ、三ツ矢サイダーが生まれる。(○中略)
 こうした樹木や建物、藁葺き屋根の集落の表現、骨法を定めない墨で描かれた山や岩などは、天文七年(一五三八)ごろに笠置寺で作られた「笠置寺縁起絵巻」(笠置寺蔵)に近い。上へ行くほど細くなる松の大木は、慶應義塾大学に所蔵される絵本『扇合物かたり(花鳥風月)』の冒頭に描かれる松を思わせる。
 所蔵館は、本図を古書店で購入したといい、残念ながら伝来は不明である。

【図版01】「摂州細川荘絵図」トレース図(図録より)

【引用03】高野弥和子氏「長久三年摂州細川荘大絵図について」55頁
細川荘絵図には裏面のおよそ中央に文字が記されているが、判断が難しい箇所もあり翻刻が検討途中であるが、以下のとおりとしておく。
一長尾山公房楊梅被始事 高氏将軍被成御湯治 文和三年甲午五月十日 多田院有御下 向候 其時塩川方御銚子 被参御希長尾東西ノ楊梅被取候
其時雖有申分御公方様江参止不及是非候 何モ楊梅木切取事御代ヨリ亭止ニテ候

■「摂州細川荘絵図」に見られる2つの大きな疑問点
①「風呂」という記載 ⇒ 次項「多田塩川湯」(多田温泉)を指すのであれば、中世の「温泉」表記としてはあり得ない
②「長久三壬午年十一月五日」の干支の表記法
 太田晶二郎氏によれば
  年号-数字-年(歳など)-干支 ⇒ 上代・中世
  年号-数字-干支-年(歳など) ⇒ 近世
≪数字-干支-年≫の確実な最初例は「天正五<丁|丑>年」が初例(紀年銘)

8,『大乗院寺社雑事記』(『尋尊大僧正記』)の永正2年(1505)3月11日条
【史資料04】
  十一日
一多田塩川湯ニ入云々、御所坊ニ付、此間御所坊衆俄ニ開出云々、侍分者卅人計在之、雑 人少々則返之、
  十二日
一昨日分懃行了、
一此間日中ハ一湯ヲ所望、今日ヨリハ夜可入旨仰了、初夜湯可然之由申、然者日中湯モ二 湯也、

■『増補 続史料大成本』「尋尊大僧正記百九十」(永正2年正月1日始)冒頭註記
「以下四月六日ニ至ル間ノ記事ハ他冊ニ混綴セラレタルモノナリ、今之ヲ復原ス」
◎ 戦国期に「多田塩川湯」=江戸時代の多田(平野)温泉に比定可能=が所在し たことは確認できる

9,天平3年(731)7月5日上進の『住吉大社神代記』
『住吉大社神代記』について
◎ 天平3年(731)7月5日に住吉大社の社司が神祇官へ上進した解文。巻末に延暦8年(789)の住吉郡判・摂津職判を加える。大阪市住吉区 住吉大社所蔵。重要文化財。

◎ 成立年代にかかわる二つの学説
田中説 = 天平3年真撰説から天平3年原撰・延暦初年書写説へ
坂本説 = 田中説を批判 平安時代、おそらく元慶年間(877-885)以後の造作 ⇒ 平安時代前期の可能性

【史資料05】「座摂津職住吉大社司解 申 言上神代記事」
豊嶋郡城辺山
  四至<限東能勢国公田。限南我孫并公田。/限西為奈河・公田。限北河辺郡公田>
右。杣山河元。昔橿日宮御宇皇后所奉寄供神料杣山河也。元偽賊土蛛造作斯山上城壍居住。略盗人民。軍大神悉令誅伏。吾杣地領掌賜。山南在広大野。号意保呂野。山北別在長尾山。山岑長遠。号長尾。山中有澗水。名塩川。河中涌出塩泉也。豊嶋郡與能勢国中間在斯山。<号城辺山由。因/土蛛城壍界在。>山中有直道。天皇行幸丹波国還上道也。頗在郊原。百姓開耕。号田田邑。

豊嶋郡の城辺(きのへ)山
  四至<東を限る能勢国の公田。南を限る我孫并びに公田。/西を限る為奈河・公田。北を限る川辺郡の公田。>
右の杣山河の元は、昔橿日宮に御宇しし皇后、供神料に寄さし奉りし所の杣山河なり。元、儀賊土蛛、この山の上に城と壍を造作り居住して、人民を略盗す。軍大神、悉く誅伏はしめ、吾が杣地と領掌し賜ふ。山の南に広大なる野あり。意保呂野と号く。山の北に別に長尾山あり。山の岑長く遠し、長尾と号く。山中に澗水あり、塩川と名く。河中に塩泉涌出るなり。豊嶋郡と能勢国との中間にこの山あり。<城辺山と号く由は、土蛛の城壍の界に在るに因りてなり。>山中に直道あり、天皇、丹波国に行幸して還り上へる道なり。頗き郊原あり、百姓開耕き、田田邑と号く。

【参考文献】
◎川西市史編集専門委員会編『かわにし 川西市史第一巻』(兵庫県川西市、1974年8月)

◎伊藤克己「江戸時代の「飲泉」-源泉の性状をめぐる温泉認識・その部分的素描-」(日本温泉文化研究会編『温泉の文化誌 論集【温泉学Ⅰ】』、岩田書院、2007年6月)
◎伊藤克己「多田温泉のこと」
  (note https://note.com/katsumi_itoh/n/na989d919d19f)

◎大和文華館特別展図録『聖域の美-中世寺社境内の風景-』(公益財団法人 大和文華館、2019年10月)

◎高野弥和子「長久三年摂州細川荘大絵図」(『大阪春秋』第87号、大阪春秋社、1997年6月)
◎高野弥和子「長久三年摂州細川荘大絵図について」(『池田郷土研究』第21号、池田郷土史学会、2019年4月)

◎太田晶二郎「重要文化財 嘉禎本 十七條憲法は偽物である」(『太田晶二郎著作集』第二冊、吉川弘文館、1991年8月)
◎藤本孝一「神護寺蔵『源頼朝像』と『足利尊氏像』『足利直義像』について-供養から寺宝へ-」(『書物・出版と社会変容』20、「書物・出版と社会変容」研究会、2016年3月)

◎坂本太郎「『住吉大社神代記』について」(『坂本太郎著作集第四巻 風土記と万葉集』、吉川弘文館、1988年10月)
◎田中卓『住吉大社神代記の研究』(田中卓著作集7、国書刊行会、1985年12月)

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