0420岩下

こんにちは、主宰の岩下です。
これまでかつパラでは作演出をつとめていたのですが、5月のミニ公演では役者として出演することになりました。

前回おがちゃんがすごい長い文章を書いた(すごい長い企画書を添えて)ので、今日はそれに対する返答という形にしようと思います。
以下はおがちゃんが演出として「興味のあること」の抜粋で、「会話がうまい」と言われる役者についての論考です。

科学的な視点では、人工的に脳を再現することが限りなく不可能に近い。取るに足らない人智のおかげで観察する関数がいくら増えたとしても、脳の複雑さに追いつけないからだ。……人体は、本人が無自覚のうちに多くの情報量をインプットし、それらをアウトプットとして還元している。演技でコントロールできるのは、その中で氷山の一角でしかない一方、観客は水面下の膨大な情報量を受け取ることができる。……会話が上手い役者と言われる役者の一部は、この微妙な情報を観客に提供することができるため、観客が豊かな会話の情報量を楽しむことができるのだと思う。


はじめに懺悔すると、「会話がうまい」「会話ができる」という枕詞に意味がないことは明確です。にも関わらず、自分がこの言葉を役者の能力を判定できるものであるかのように長らく使っていたことに恥ずかしさを感じます。
おがちゃんはこの「会話のうまさ」を身体のもつ情報量の問題として捉えています。

ここからは駒場で開講されてる金曜5限の「癖」についての授業の受け売りです。日常的身体は、膨大な情報の前に晒されています。その理解不能な世界に対し何とか対抗しようとしていろんな所作が生まれる。
その所作の集積によってできる傾向が個人の「癖」であって、「癖」は世界からかかる圧力が身体の型枠を通ってところてん式に生まれてきたものだと解釈できます。

翻って演劇・演技はその所作を人工的に再現しようとしている、というのがおがちゃんの立場です。(多分)
つまり、役者は、自分あるいは近しい他者の日常部的身体が生んだ所作を人工的に再現し、その一つ一つを意味に還元して(意味に還元する必要があるのかは議論の余地があるが)、その量を日常的身体が放つ情報量に拮抗させる(=その情報量が「面白さ」だ)という演技観です。

余談ですが、金5の先生は、個人の「癖」を振り付けに使うダンスの作り方をアルシ・コレオグラフィー(根源的な振り付け)という言い方をしています。
http://nocollective.com

僕はこの発想を信じきれてはいないのですが、演技の問題を感情・心・気持ちの問題から身体の問題へと移行していくメリットとしては、演技を分析的に言葉にできるという点が大きいと思っています。

この人工的な癖の再現=振り付け的な演技を、内臓や不随意筋までも範疇に含めて考えていくのが最近の僕の関心です。


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