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世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学 近内悠太 (著)

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つまり、こういうことです。
僕らはときとして、贈与を差し出す(ふりをする)ことで、その相手の思考と行動をコントロールしようとしてしまうのです。そして実際、相手は贈与の力によってコントロールされ、そのコミュニケーションの場に縛りつけられてしまうのです。贈与の呪いは、相手がそれに気づかないうちに、相手の生命力を少しずつ、確実に奪っていきます。

【感想】贈与とは、良い面だけでなく、人を不幸にするような機能もあるのだと思った。

語の理解が確実にできているから、言葉を使えるのではありません。そうではなくて、その語を用いて他の人と共に滞りなくコミュニケーションが取れているから、語の意味が理解されているのです。
このように実践を通してゲームが成立するがゆえに、事後的にルールというものがあたかもそこにあるかのように見える、というのがウィトゲンシュタインの主張のポイントです。ウィトゲンシュタインは、そのようなゲームを「言語ゲーム」と名づけました。野球に限らず、将棋もチェスも、そして言語コミュニケーションも、人間の営んでいるあらゆる活動が言語ゲームとなります。

【感想】哲学では、ある事象に対して、心の中にそれに対応する表象というものがあることで人はものごとを理解しているという考えがありますが、ウィトゲンシュタインは言語ゲームという別の理解モデルを考えた。

教養とは誤配に気づくこと。
手に入れた知識や知見そのものが贈与であることに気づき、そしてその知見から世界を眺めたとき、いかに世界が贈与に満ちているかを悟った人を教養ある人と呼ぶのです。
そしてその人はメッセンジャーとなり、他者へ何かを手渡す使命を帯びるのです。使命感という幸福を手にすることができるのです。

【感想】贈与は受け取る人がそれと気づいて初めて贈与になる。確かに私たち現代人は先人の大変な苦労の結晶である科学技術や社会システムを当然のように享受しているが、その莫大なプレゼントに気づかずに、不平を言っているんだということに気づかせてもらいました。著者に感謝します。


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