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朝倉克です_「図書館に残る仕事」から始めました

今年11月からクリエーターを名乗り、Webを立ち上げ、今回noteに初投稿します。

広報担当として、いくつかの企業で報道対応を中心に長く仕事をしてきました。商品や事業の記者発表、会見、取材対応  •••
ネタにも恵まれ、それなりに多くの記事を経済紙だけでなく一般紙にも取り上げてもらいました。企業価値を上げることに少しは貢献できたかなと思いながら、やりがいをもって職務に当たっておりました。

主要全国紙やブロック紙は新聞の縮刷版として図書館に所蔵され、記事が残ります。大成建設に「地図に残る仕事」という名コピーがありますが、自分の仕事は図書館に残る仕事なんだと誇りに思いながら広報を続けてきました。しかし40歳手前で「待てよ、オレはコピーライターになりたかったんだよな。広告の世界にはいりたかったんだよな」という初心を思い起こすようになりました。

僕が学生の頃、1980年代前半は、糸井重里さんをはじめ新進のクリエーターたちが脚光を浴び始めた時代でした。世の中も多様性を受け入れる余裕を持ち始め、コピーという極小の言葉の連なりと、描かれる世界観と効果が魅力的に映るようになってきた時代でした。西武百貨店のウディ・アレンを起用した「おいしい生活」。このコピーを引き合いに出すのはありきたりですが、これには僕もやられました。ああ、そういうことかと。

新卒では残念ながらその望む方向には行けませんでしたが、40歳が良い区切りととらえたときに、その世界をもう一度目指したいという気持ちが強くなりました。そして、宣伝会議の「マスメディアン」という転職プラットフォームに登録したのでした。この時に今のICTサービス企業と縁ができ、転職。広報も多少引きずりながら、広告・ブランディング・イベント・編集業務に軸足を移すようになりました。

その頃、遅い結婚もしました。報告のために小学校時代に担任だった先生を訪問した時のこと。先生が家の奥からやおら持ち出してきたのが、僕が小学校の時に描いたニワトリの絵でした。そして「君はてっきりこっち(絵)の世界に行くものだと思っていたよ」と、あまりに意外なことを言い出すのです。

僕は小学4、5年生の頃になぜだか急に絵がうまくなり(自分で言うなよ)、とても厳しいその先生が何かとほめてくれていたのは確かでした。でも、まさかプロの道に行くものだと思っていたとのこと。これには仰天しました。

残念ながら僕は、中学2年生の頃からさっぱり絵が描けなくなったまま中年になっていたので、あまりに意外な言葉でした。ここで少し自信と自惚れがもたげ始め、調子のいいことを考え始めます。あれ?オレ、そっちの世界に行けたのかな? 今からでも頑張っちゃおうかな。

長いスランプを経て自然に絵を描きたいなと思い始めていたタイミングでもあったので、この時をもって調子に乗ったもう一つの方向も意識するようになったのでした。

広報、広告分野で生活してきた僕ですが、昔、ごく自然に絵が描けていた時代を懐かしむように作品をつくりはじめました。徐々に絵画コンテストでも入選するようになり、時期尚早ながら今年クリエーターを名乗り、Webも立ち上げた次第です。

今後、自分の作品とそれにまつわるエピソード、イラスト、絵本、漫画などの作品を中心に紹介していきたいと思っています。失敗談を中心に広報というものを読み解くコラムなども考えています。ゆっくりとしたペースになろうかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。


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