雑記20230317

「10枚集めて下さいね。」

サウナ大人と書かれたチケットを番台のおばちゃんに渡すと、そう優しく語りかけてきた。疲れ切った私は煮え切らない表情でタオルを受け取る。ここの銭湯は3/31で約40年の歴史を終える。それを受け止め切れなくて、1時間電車に揺られてとうとうやってきた。ネオンライトが車窓を切り裂いていくのをぼんやりと見ていた。

「10枚集めると、一回タダで入れるんだよ」

元彼はそう教えてくれた。元彼の地元はここから二駅くらい離れた住宅街で、そこでうん十年とすくすく大人になった。ここにもよく来ていたらしい。私がたまたま引っ越してきて、付き合うことになった。この銭湯は元彼もよく来ていたそうで、番台のおばちゃんの発言の意味を尋ねたらこう答えてくれた。老舗って感じだなと月並みなことを思った。いつも二人で行くと同じようなコースで1時間じっくり温まって、待合でジュースを飲んで帰る。彼はジュースをやたら奢りたがる人だった。

別れてから一年ほどしたころ私は引っ越すことにした。引っ越す理由は単純で、「元彼と商店街で3回すれ違ったら引っ越そう」と決めていた。何事にも定量的で誰でも評価できる目標を決めることが大切だ。なぜ3回?と問われると「それが私の精神的なキャパシティだから」と答えるだろうか。ちょうど別れてから一年ほどで、3回目だった。別れてから髪型も服も全て変えた私に、向こうは気がついていない様子だった。私も気がついていない様子だった。もう一つの3回目という数値の根拠だった。

「10枚集めて下さいね。」

部屋を引き払った私は真っ先にこの銭湯へやってきた。それが自分の中のケジメなような気がした。元彼とではない、一人でここに来て、一つずつ処理していく必要があると思った。思い出でも愛でもない、しかし渦巻いている、まだ名前のついていない感情について。

今住んでいる街に引っ越して、すっかりこの付近には来なくなった。少しずつ忘れていくし、それでいて何もかも思い出せるような気もする。その中の風景の一つはあっさりとなくなるという。感謝の念を抱く前に、寂しい気持ちが混ざってしまった。

いま待合室にいる。しかしこの待合室で誰も待つことはない。今月末でこの銭湯は潰れてしまう。薬湯でくたびれた顔をしているあなたの表情を忘れない。でも私は私を愛するために先に行くね。

「今月末までですけどね」

寂しそうに番台のおばちゃんは続けた。
私の家には10枚では収まらないほどのチケットがあり、それらはネオンライトでは燃やせない。

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