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忘れられたコーヒー

太陽光に熱された鈍く光るコンクリートを踏みしめ足を進めると、一歩一歩の歩みと上半身の毛穴が呼応するように汗が出る。暑い暑い灰色のジャングル・東京の夏。おまけに重い重い、肉に喰い込む肩掛けバッグ。クソ暑いのに、なんでだ。ハードカバーの本3冊、文庫本2冊、Kindle、おまけにコンパクトカメラが入っているからだ。

もう嫌だ。いつもこうだ。家を出る前の身支度、暇で散歩するのだからそりゃ本も読むだろうと思い、本棚を眺めると、あいつもこいつも誘惑してきて、全てバッグに詰め込む。選べない。そして外出して、1冊の2〜3ページだけ読んで、のうのうと帰ってくる。優柔不断な怠け者の甘えん坊。それが私の実像だ。汗とともに誇りや自尊心まで流れ落ちる。だから夏は嫌いだ。

行方なく、真っ直ぐな大通りを北上していると、左手前方に白い木目の店舗が見える。クリーニング屋やコンビニとは明らかに違う雰囲気を感じ取り、進んで覗くと、ガラス張りの注文受けカウンターに、髪を短く切り揃えた小ざっぱりとした男性が立っている。奥の狭い店内も真っ白で、ベンチのような座席と壁面に対して映える観葉植物たち。非常に洒落た趣があるコーヒーショップだった。

これはいい、酸味の効いたアイスコーヒーでも飲んで、綺麗な店内で涼めば、汗も自己嫌悪も引いて、都会的な、スマートな気分になれるのではないかと目論み、先ほどの男性に注文をして、店内の1番奥の方の席に座り込む。豆はよくわからないから、語感だけでコスタリカにした。すると、他より少し高くなるがいいかと聞かれた。そこで値段の違いに気づいて焦ったが、撤回したらダサいよな、舐められるよな、嫌だ、と思い「ああ〜…でも今日はコスタリカで」なんて言ってみた。初来店かつコーヒーへの造詣も深くないのに、豆の違いがわかるような素振りをしてしまって、後から逆に恥ずかしい。まぁ、いい、たった100円だ。されど100円……。

気を取り直し、最近読んでいる小説『カフェ・シェヘラザート』を開く。実在したメルボルンのカフェを舞台に、ホロコーストを逃れた人々が記憶を語り合う物語。静謐な描写だが、実在したかのような人物の語りに引き込まれる。
数分読んで前を見ると、小さな店舗にもかかわらず、次々と若い女性や知的な風貌のカップルが訪れる。盛況だ。たしかに良い雰囲気の店舗だものなあ。

……そして小説を読み続けて大体30分。コーヒーが届かない。自分より後にきた人々数組にサーブされていたから、明らかに私の注文は忘れられているのだろう。

やってくれたな、と心の中で頭を抱える。何だ、器量の小さい人間だな、このくらいのことで腹を立てるんじゃない、と思われるかもしれないが、そうじゃない。腹を立ててるわけじゃないんだ。器量が小さいことには変わらないが。

このとき、パターンを2つ考えていた。①店員さんが気づくまでずっと待ち続ける or ②店員さんにコーヒーがまだ届かない旨を伝える。以下でシュミレーションしてみよう。

①店員さんが気づくまでずっと待ち続ける

すっかり忘れられているようなので、待ち続けたら、かなりの時間が必要になるだろう。ちょっと立ち寄るくらいのつもりだったから、流石に長居はしたくない。いっそのこと、支払った代金のことは忘れて何も言わずに出て行ってしまう? いや、こんなことも店員さんに伝えられないようじゃ、また優柔不断な怠け者の甘えん坊のレッテルを自分から自分に貼られて、肯定感だだ下がりだ。

②店員さんにコーヒーがまだ届かない旨を伝える

必ずすぐにコーヒーを準備してくれるだろうし、客観的にとるべき行動だと思われる。でも、でも、注文を取った男性の店員さん、すごく忙しそうなのだ。おまけに注文時も真面目で優しそうな話し方だったし、私がサーブ忘れを伝えたら、深く謝られそうだ。嫌だ。気を遣わせたり、頑張ってるところをテンション下げたりするのは本望じゃないのだ。今だってほら、すごく良い笑顔で常連さんらしき人と話している。

以上のように、注文を忘れられた時点で袋小路なのだ。誰の機嫌も損なわない選択肢など存在しない。だから、やってくれたな、と心の中で叫ぶ。

だが、もう少し思考を進めると①の果てに店員さんが気づいたとしたら、それはそれで、ひどく申し訳なく思われるのではないだろうか。そう考えると、せめて自分の自尊心だけでも救うために②、勇気を持って店員さんに伝えなければいけない。

「あ、あの、アイスコーヒー、先ほど注文したのですが、」

「…!!!(注文表を慌ててめくる)申し訳ございません!すぐ準備しますね」

「あ、はいっ、テイクアウトでお願いします」

「わかりました。本当にすみません…」

この場に身を置いていたら、店員さんの申し訳なさそうな雰囲気に対する申し訳なさで焼きつくされそうだったので、とっさにテイクアウト注文に切り替えたら「時間に追われてるのに注文を忘れられました」というメッセージ、嫌味感が出てしまったかもしれなくて、本当に本当に申し訳ないっっ…!

窯で茹でられてるような気持ちで、出来上がりを座って待つ。店員さんがコーヒーを持って来る。やっと解放される…。

「本当にすみませんでした。お待たせしてしまったので、このクッキー、もしよろしければ」

「え、そんな、大丈夫ですよ」

「いや、本当にこちらのミスなんで。すみません」

「あ、ありがとうございます。すみません」

お店のPLにまで…!負担をかけてしまった…!最後の最後まで、葛藤渦巻くコーヒー店での一幕。そして結局、こんな小さなことでウダウダ考えてる自分、本当に情けないなと自己肯定感がだだ下がっている。

外に出て暑さを感じながら、アイスコーヒーをストローで吸うと、酸味がありながらナッツのような香ばしさと甘さを感じる。これがコスタリカなのか。とても美味しいコーヒーだ。たまらず、行儀が悪いが、路上でチョコクッキーを1枚取り出し咀嚼しながら、コーヒーで流しこむ。至福の瞬間。ああ、美味しい。

店内のクーラーで冷えた身体からは汗も滑り落ちない。またいつか、このコーヒーショップに来ようと思った。

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