カキカレー

数ヶ月前にインドカレーではないスパイスカレーのお店が職場の近くにできて、よく通っている。そのお店が今週は「牡蠣カレー」を週替わりメニューで出すらしく、Instagramで写真をアップしているのを昨日見かけた。赤茶色に濁して照りのあるルーを纏って浮かぶ、広島産のカキはムッチリと肉感的で、上の歯と舌の間で優しい万力のように噛み潰したら、どんな液体が噴出するのだろう、などとスパイスの香りとともに想像していたら、いてもたってもいられなくなって、今日行ってきた。

牡蠣をイメージ通り噛み潰すと、タウリンや亜鉛そのものが舌にまとわりつくような味がして、弾けた液体からじめっとした磯の香りが発せられ、鼻の奥から抜けていく。その瞬間、自分は牡蠣の味があまり好きではなかったことに気づいた。長らく食べていなかった、かつ、昨日の写真の牡蠣があまりにも魅惑的だったので、すっかり美味しく食べられるイメージをしていた。逆にそこまで想像しているのに、美味しく食べられないとはよっぽどではないか。ほとんどの好き嫌いは知覚と味覚が相互作用を及ぼしていると勝手に思っていて、「苦手だ」という知覚さえ乗り越えれば、なんでも美味しく食べられるはずだという自論が覆される。私は、本当に、牡蠣が苦手なのだ。

世間の「良い」が自分にとっての「良い」とは限らない。そうは思うが、自分は世間が「良い」というものに対して、今まで幾度となく「良いなあ」と思ってきていて、ほとんど世間の「良い」は何かしら良いのだろうと受け入れてきた。もしそれが「好み」ではなかったとしても「良さ」は理解できることがほとんどだ。そしてその「理解できてる」気分の自分に何らかのナルシズムを抱いていたと思う。しかし世の中で絶品と評されることも多い牡蠣の美味しさが、何度食べても、本当に欠片もわからない。そもそも牡蠣の構造や、自分が食べているこの牡蠣という生きものは何なのか、生き物の総体としてのどの部分なのか、わからない。

急に牡蠣が理解しようとする自分の気持ちから断絶した、深淵なるものに見えてきた午後1時だった。ココナツなどが効いていて、まろやかなルーだったので、牡蠣は置いておいても、美味しく食べられた。ごちそうさまでした。


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