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言葉の果てる場所

 異国での暮らしに終止符をうち、故国に帰ろうと決めた私は、最後の思い出にと、ヨーロッパ最西の地、ロカ岬を訪れる。そこで知り合った、元詩人と名乗る老人から、「言葉の果てる場所」を見にいかないかと誘われて——。

第2回幻想と怪奇ショートショートコンテストに応募しましたが、残念ながら落選した作品です。


「ロルカが好きなのかね?」
 ロカ岬行きのバスで、隣にすわった老人からスペイン語で話しかけられた。
 私が手にしていたペーパーバックの詩集に目をとめたのだろう。
 私は、あまり上手くはないスペイン語で、そうです、と答えた。
 正確にはロルカは、私が、というより、もう会うことのないだろう、あの人が好きだったのだが。
「そうか……わたしの古い知人には、彼本人と面識のあるものがいたよ」
 彼は、自分も詩人だと名乗った。
「いや、元詩人というべきかな、もう書けないから」
 そして、私とその人——カルロス老人とは、バスが岬に到着するまでの間ずっと、言葉を交わしていたのだ。
いったい幾つなのだろう、白髪の彼は、しわの深い、なにか悪戯っぽい顔つきをしていた。しかし、どこか人なつっこいその目が、ときおり、何かを探るような、突き通すような鋭さをみせる。これが、詩人の目というものなのか、そんなことを思いながら、彼に聞かれるまま、私は自らの事を話してしまっていた。自分でも驚くようなあけすけさで。それは彼の巧みな話しぶりにのせられてのものなのか、いや、たぶん誰かに聞いてほしかったということなのかもしれない。
 身の上話の最後に、私は、もうヨーロッパでの生活を切りあげて、自分の国に帰るつもりだといった。
「ハポンか……まさに、この大陸の反対の端だね。それは遠いな」
と、老人は感慨深げにつぶやいた。

 バスを降りてみれば、あいにくの天候で、ロカ岬は霧におおわれていた。
 潮騒が聞こえ、そして海の香りはするものの、眼下に果てしなく広がっているはずの大西洋は、ほとんど見えなかった。
 それでもおおぜいの観光客は、笑いさざめき、代わる代わる、石碑の前で楽しげに写真を撮っていた。
 ——ここに地終わり、海始まる
 その石碑に刻まれたカモンイスの詩の一節だ。
 ここでヨーロッパがおわる。
 私が最後に訪れる場所としては、とてもふさわしいように思う。
 霧に濡れながら詩文を見つめていると、
日本人ハポネス、君はもう帰るのか?」
 声をかけられた。
 ふりかえると、いつの間にそこに来たのか、杖で身体を支えたカルロス老人が、私のすぐ後ろに立っていた。
「はい……次のバスに乗るつもりですが」
 私が答えると、彼は、少しためらったのち、聞いてきた。
「それは、すぐに帰らないといけないのか?」
「いえ、別にそういうわけでも」
 私は、首を横に振った。
 今の私には、何の予定も、私を待つ人もあるわけではなかったから。
「そうか……それなら、よかったら、少しわたしにつきあってもらえないかな」

 そして彼が口にしたのが、「Donde terminan las palabras(言葉の果てる場所)」だった。
 このロカ岬から少し離れたところに、その場所がある。
 カルロス老人は、今はもうこの世にない知人から、ずっと昔にその場所のことを教えてもらったのだそうだ。
 そして、今、そこに赴くために、わざわざやってきたのだという。
「言葉の果てる場所……いったい、そこはどんな場所なんですか?」
 私は見当がつかず、聞き返した。
「うむ……」
 老人は、視線を宙にさまよわせ、それから答えた。
「言葉……この大陸を流れるさまざまな言葉が、最後にたどりつく場所があって、すべての言葉はそこで尽きるというんだ」
 彼の言葉はなにか抽象的で、よくわからなかった。
 これまで聞いたことはないが、それはここ、ロカ岬のような、観光名所のひとつなのだろうか。
 ただ、「言葉の尽きるところ」というその句には、いまの私を強く揺り動かすものがあった。
 とどのつまりは、共通の言葉がつきてしまったのが、私たちであったのかもしれないのだから——。
 カルロス老人は、そんな私を探るように見ながら、
「それで……君にこんなことを頼むのも、おかしな気がするが……。どうかね、ハポネス、私といっしょに、見物にいかないか、言葉の果てる場所を」
 私は思わず聞いた。
「カルロスさん、でも、どうして、ぼくなんかを誘うのですか?」
「なぜ、か。うむ……なぜか……」
 老人は、私の問いに、すこし慌てたように考えこんだ。
 そして、言った。
「そうだ、たぶん……君がロルカを読んでいたから、かな」
 あいかわらず何を言っているのかわからない。
 ただ、私は。
「いいですよ、カルロスさん」
 バスで乗り合わせただけの私に、こんなことを提案してくる老人もおかしいが、それを承諾してしまう私もなにかおかしいのだろう。なにかの犯罪に巻き込まれる可能性だってあるのだから、まともに考えるなら断るのが当然だ。これまでの異邦の地での生活で、私は、故国ではそれほど思うことのなかった、警戒心というものの重要さを身にしみて思い知らされている。
 だが、それでも私は。
「私も連れていってください、その場所へ」
 私はそう答えたのだ。
「そうか、行ってくれるか」
 カルロス老人は、相好を崩して、
「ありがとう……実は、一人で行くのは、なんだか怖くてね」
 ぼそりといった。

 私たちはいったんリスボンに戻り、レンタカーを借りた。
 カルロス老人が車を運転する。
 車は4月25日橋を渡り、道路を南下していった。
 リスボン市街はそれほどでもなかったが、橋を渡ってからは再び濃い霧がすべてをつつんでいった。
「視界が悪いな……」
 老人が、フォグランプを点けた。
 ライトの黄色い光が、霧を照らし、行く手にはおぼろな影があらわれて一瞬その形を明らかにすると、すぐに流れ去っていく。
「そうだな……君の話はしてもらったから、今度は私が話をしよう」
 車を運転しながら、カルロス老人は、語りはじめた。
「……私はこれでも、それなりに名の知れた詩人だったんだよ。
 いや、謝る必要はない。
 君がわからなくて当然だ。
 今や詩壇の人間でさえ、なにかの折りに私が名乗ったりすると、えっ? こいつ、まだ生きてたのか、みな一様にそんな顔をするからね。
 まあ、無理もないんだ。
 私はもう長いこと、詩を発表していないから……」
 老人はしばらくだまって、目の前の道路をみていた。
 そして、また話しはじめた。
「……言葉がね、いつの間にか、すりきれてしまったんだよ。
 ずっと書いているうちに、私の言葉が、使い尽くされて、摩耗して、意味を成さなくなってしまったんだ。
 ああ、これはあくまでも私の裡でのことだよ。
 君にうまく伝わるか分からないんだが……私の中で、私の紡ぐ言葉が無意味で、空っぽなものになってしまった。
 そのことに気がついたら、もう、書くことができなくなってしまったんだよ」
「それは……あなたが、書くべき事をすべて書き尽くしたとか?」
 老人はかぶりをふった。
「いや、どうもそうではない気がするんだ」
 と、答えた。
「書かねばならないことは、いや書きたいことは、この歳になってもまだ熾火のように私の中に残っているんだが、それを言葉にしようとすると、とたんにすべてが空虚になってしまうんだよ、このもどかしさは、なかなか人には分かってもらえないんだがね」
「あの……カルロスさんは、おいくつなんですか?」
「私か? 私は今年で八十八になるよ」
「カルロスさんは、その、言葉の果てる場所に行って、どうするつもりなのですか?」
 老人は黙り込んだ。
 しばらくの沈黙の後、言った。
「ふんぎりをつけたいのかな……私の言葉に」
「ふんぎり、ですか」
「そう……言葉が終わることに」

 私たちの車は、ナビをみると、どうも国立自然公園の中に入っているようだった。
 あいかわらず深い霧のために、あたりの景色はほとんどわからない。
 やがて、老人は空き地のような場所で車を停めた。駐車場なのかもしれない。
「さあ、ここからは歩きだ。すまんが、これを持ってくれ」
 カルロス老人は、私に、後部座席に置いてあったバッグをしめした。手に取ると、バッグはズシリと重い。
 老人はドアをばたんと閉め、杖をついて歩き出した。
 私は老人の不安定な歩みにあわせて、ついていく。
 霧に、潮の香りが混じる。
 耳を澄ませると、遠くで波の音も聞こえる。
 もう海が近いのだろうか。
 カルロス老人は、迷うそぶりもなく、進んでいった。
「ああ、ここだ」
 立ち止まったのは、岩山が崖のように切り立った場所で、そこにはいくつもの洞窟が口を開けていた。
 洞窟の入り口には案内板が立っている。内部は観光コースとなっていた。
 足を踏み入れると、整地されて手すりのついた通路が整備されており、配置された照明が明るく点灯して、安全に見て回れるようになっていた。
 天候のせいなのか、私たちのほかには、観光客は見当たらなかった。
 洞窟は中でいくつかに分岐して、分かれ道にもそれぞれ案内板があり、その先がどうなっているかを説明していた。
「ここが?」
 私が聞くと
「いや、まだ、先なんだ」
 カルロス老人は答え、手すりを掴みながら足を運ぶ。
 しばらく進んだ先、経路とは外れた、照明もほとんど当たらない物陰に、目立たないような脇道があった。
 老人は苦労して自分の足を持ち上げ、手すりを乗り越えて、脇道に踏みこむ。
 私もあわててついていく。
 脇道のその奥は、金属格子の扉で塞がれ、PERIGO:ENTRADA PROIBIDA(危険 立ち入り禁止)と書かれた、大きな錆びたプレートが、無造作に張られていた。
 老人は私に持たせたバッグの中から、ごついワイヤーロープカッターをとりだした。
 バッグが重たかったのはこのせいだったようだ。
「ここを切ってくれ」
 老人は扉を縛っている頑丈な鉄鎖を指さす。
「わかりました」
 よく考えれば、これは犯罪行為だろう。
 しかし老人はなんの躊躇いもなく、そして私も唯々としてその指示に従っていた。
 両手で柄を握り力をいれると、カッターが鎖を断ち、垂れた鎖がガチャリと音を立てた。
「さあ、だれかが来ないうちに入ってしまおう」
 老人は扉を引いた。
 長く開けられたことなどないのだろう、扉の蝶番は錆び付いて、老人の力では開けられず、私が手をかすと、耳障りな軋む音を立て、扉は少し開いた。
 私たちは急いで中に入り、扉を元通りに閉める。
 もちろんこの先には何の照明もなく、行く手には暗闇があるばかりだった。
 老人のバッグからは、用意のいいことに、大きなLED探照灯が出てきて、彼がスイッチを入れると、まばゆい光の筋が私たちの行く手を明るく照らした。
 潮の香りがさらに強くなり、生臭いほどだった。
 コツリ、コツリ、カルロス老人の杖の音が洞窟に響く。
 進んでいくと、やはり分岐が何回もあったが、老人には迷うそぶりはなかった。
 分かれ道に立ち、何事かつぶやくと、こっちだな、そう言って一方の道を選んでいく。
 いったいなにをしているのか。
 私は、幾つめかの分岐点で立ち止まった老人のすぐ脇に近寄り、耳を澄ませた。

 ——おお、それは死せる人びとのつぶやき
   裁きの天秤は傾く
   すべての葉叢は燃えさかる炎
   我らの大地はどこにあるか

 老人は、私を見ると、口の端で笑い、言った。
「私の詩だよ、かつて書いたものだ。これが私をたすけてくれる」
「詩が——?」
「つぶやいた私の詩が、流れていくんだ。それが分かる。その流れる方向に行けばいいんだよ」
 そうして、私たちは洞窟を進んでいった。
 老人の歩みにつれて、探照灯の光がゆれて、岩影がおどった。
 私たちはいったいどこに向かっているのか。
 もはや、ぶじに戻ることなどできそうにない。
 しかし、私は、魅せられたように、正常な判断を失って、詩人であるカルロス老の後をついていくのだった。

 カルロス老人の足が止まった。
 そこは、ぽっかりと開いた、大きな空洞だった。
 洞窟の床には、いくつもの黒い影がわだかまっている。
 灯りが照らすと、それらは、ずんぐりとした体形の石像であった。
 おそらく人ではあるのだろうが、かなりデフォルメされた目や耳をもった石人たちが、空間に配置されていたのだ。
 カルロス老人が、探照灯を振り、空間の壁を照らしていった。
 そこには、赤い顔料をつかって、手形や、幾何学的な模様が描かれていた。
 一目見ただけで、相当に古いものだとわかる。
「あの手形は、ネアンデルタール人の残したものだろう」
 とカルロス老人が言った。
「この場所は、彼らの時代から使われてきたんだ」
「そんなに前から」
「その後も、ずっとな。ほら」
 カルロス老人は、壁のある場所を照らした。
「あそこに刻まれてるのは、ルーン文字だ、それから、あそこにあるのは」
 壁面には、さまざまな時代の、さまざまな文字が、刻まれているのだった。
「ここが……」
「そうだ、ここが、Donde terminan las palabras、言葉の果てる場所だ」
 カルロス老人は続けた。
「ここが、El terminal de las palabras、言葉の終着点だ、ハポネス、さあ、耳を澄ませてみろ」
 そういって、口をつぐんだ。
 まず聞こえてきたのは、遠い波の音だった。
 だが、やがて

  あああおおおおぉおおぉおお……
  えんらえねがるとぉおおお
  とれかはせれえええにぃいいい

 引き延ばされた、かすかな音の連なりが聞き分けられるようになった。

  ねぇんんするうううううぅうぷ……

 それは次第に大きく、私の耳朶を打ち、脳内に響き渡る。
 すりへって、断末魔のうめき声を上げる、言葉たち。
 言葉が流れる。
 カルロス老人の、先ほどの言葉が、私にも理解できた。
 死にかけた言葉の流れが、たどりつくその先は——。
 老人が探照灯を、広場の中央に向けた。
 そこには裂け目があった。
 まるで女陰のような亀裂がそこにある。
 言葉はその中へと流れこんでいる。
 老人が、裂け目によろよろと近づき、その縁で膝をついた。
 私も、彼にならい、裂け目の縁に跪いて、その中をのぞきこむ。
 探照灯の明かりが、裂け目の奥を照らす。
 深い亀裂のその奥には、海があった。
 この場所は、あるいは断崖の上に張り出しているのかもしれない。
 海面は白く激しく波立ち、探照灯の光を乱反射している。
 しかし、それだけではなかった。
 私と老人が見つめるうちに、海面は様相を変えた。
 
 いいいぃいぃううあああぁああ
 えええええぇぇおおおおうううううぅうう

 生の言葉が沸き立つ。
 ここに流れこんだすり切れた言葉が、溶けて混ぜ合わされ、攪拌されることで、生まれかわり、いまだかつて話されたことのない、新たな、野生の言葉として再生する、生成の場。
 それが、大西洋の海面と二重うつしとなって、私たちの前に現前していることを、私は直感した。
「おお……」
 老人が畏敬の声を発した。
 私は、言葉が再生するその光景に魅入られていた。
 ここは、言葉の果てる場所などではない。
 ここは、言葉が蘇る場所なのだと悟った。
 そのとき、突然、私の両肩が、強い力で掴まれた。
「えっ?」
 ふりかえると、いつの間にか私の後ろにまわったカルロス老人が、私を押さえ込んでいた。
 老人とは思えない強い力だった。
「なにをするんです!」
 私は、慌てて聞いた。
「すまん、ハポネス……」
 カルロス老人が、私の耳元で絞り出すように言った。
「これが許されないことはわかっている。だが、私は、言葉がほしい。私のすり減った言葉にかわる、力のある言葉がほしいんだ。実は……」
 老人の目は、ギラギラとした渇望に燃えていた。
「私に、この場所を教えてくれた知人は、この場所のもうひとつの秘密を伝えてくれた。それは生け贄だ。この場所で生け贄を捧げれば、言葉を蘇らせることができるというんだ……すまない、本当にすまない」
 カルロス老人はそう言うと、渾身の力で私を押し出した。
 私は老人の必死の力にあらがうことができず、まっさかさまに裂け目の中に転落していった。
 私は死を覚悟した。
 私の身体は、崖の下の、大西洋の荒波のたつ海面に打ちつけられ、砕けた。
 しかし、それと同時に、私の身体は、煮えたぎった生成する言葉の海にも墜落した。
 そして分解された。解けて、ほどけ、細切れになり、複製され、再構成され、言葉の海の構成要素となり、どこまでも広がっていったのだ。

 今、私はどこにでもいる。
 言葉のある場所にはどこにでも。
 もう会うことのないと思っていたあの人のところにも。
 生き延びて新たな詩を書こうと苦吟するカルロス老人のところにも。
 帰ろうとした故郷の地にも。
 そう、今あなたの口にした言葉、それも私である

 (了)

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