「乃木坂46、終末のユートピア〜この地獄を生き抜くためのアイドル批評〜」第2回雑感

どう読んだ?

読んでいて気持ちよくなった。面白かった。

なるべく主観的な見解を排そうと努力した主観的な見解

乃木坂の共同体が「アシッドコミュニズム」に接続される流れは、十分に説得的であるように読めた。(ただ素人目からすると、必要条件は満たしているように思えるが、十分条件を満たしているかは判断不可能。自身への宿題→『アシッド・コミュニズム」概念要検討のこと)。しかしそもそも、「アシッドコミュニズム」なる概念が資本主義の打倒に生産的に寄与するかどうかの検証が論自体に欠落しており、「アシッドコミュニズム」が(あくまでこの論考の記述の範囲に限っては)現時点では(最終回で修正がみられるかもしれない)マジックワードと化している。(概念の万能道具化)。

これは「アシッドコミュニズム」が資本主義の打破に生産的な寄与をしないという個人の否定的見解を含まない。「アシッドコミュニズム」の概念が資本主義の打倒へ生産的な寄与をするかどうか、論者によって意見は分かれるだろう。それが資本主義の打倒に有益であると、マーク・フィッシャーの言説に肯定的な論者もいれば、そんなものは机上の空論、もしくは理想論に過ぎないと否定的な論者もいるだろう。(いずれも穏当な賛成派、反対派、過激な信奉者、アンチを含むだろう)。

少なくとも「アシッドコミュニズム」が資本主義の打倒に有効であるという見解は、趨勢的に有力なものとして一般に共有されていないと考える。そのような状況下で、「アシッドコミュニズム」なる概念の有効性について、何らかの検証を欠いたままの筆致は、外部の権威(マーク・フィッシャーという思想家の名前)に依存したものであると(これまた現状では)判断せざるを得ない。

なお、注釈における

"資本主義リアリズム"に対抗し、1960年代のカウンター・カルチャーがアシッド(LSDやMDMAのような幻覚剤)と共にもたらした変革の可能性に活路を見出し、アナロジーとしてアシッドという語を用い、集団的な意識の向上から世界の別のありようを見出し「外側」を目指す想像力の創出を目指した。アシッドは時間感覚を狂わせ、日常を退屈にする緊急性(時間に追われること)を無化する。文化的な陶酔によって、このような時間感覚の変化を生み出すことでもまた、「何をしたって無駄で社会が変わることなどないのだ」という再帰的無能感から脱せるはずだ、とマーク・フィッシャーは考える。

といった記述を、「アシッドコミュニズム」なる概念が資本主義の打倒に生産的に寄与するかどうかの検証、としては判断しない。前者のカウンター・カルチャーの創出性は、例えばジョセフ・ヒースなどといった論客によるカウンター・カルチャーへの批判の存在などを顧みると、少なくとも資本主義の打倒に有効であるという見解が趨勢的に有力なものとして一般に共有されている水準に達しているとはいえない。(ここではあくまで例としてジョセフ・ヒースの名前を挙げた。カウンター・カルチャーをめぐる言説としてマーク・フィッシャーのそれと、ヒースのそれのどちらが優れているかなどといった判断には、ここでは立ち入らない。本稿の主張においては対抗言説の例示のみで十分と考える)。また、後者の記述に限り、「アシッドコミュニズム」が「再帰的無能感」からの脱出に価値が集約されるとするならば、それは「自己啓発」と何ら違わない。(ここでの「自己啓発」はそれ自体として否定的な見解を伴わない。一般的に「自己啓発」によって生が豊かになることもあれば、貧しくなることもある。その比率に関しては、本稿は立ち入らない)。注釈における記述から読み取れる解釈として、「アシッドコミュニズム」が「自己啓発」と違わないならば、それは推し言説にて散見される対象の存在に実存を得る、オタク的「自己啓発」ともまた、違いが生まれない。

そして、第1回で予告された「死」のテーマが後退している。『ミッドサマー』における「死」とアイドルの「卒業」の(及び両者をその帰結に至らしめる構造の)類似はあくまで符号的な一致であって、(現状の記述に限ると)「死」や「卒業」といった概念に、相互作用による何らかの新たな知見をもたらすことがない。「死」と「卒業」の符号的な一致にのみ止まるならば(つまりアナロジーに止まるならば)それは『いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46』において、岩下力監督が「卒業」を「失恋」にアナロジーした事例と差異が見出せない。

個人的所感

一人のアイドル好きとして、気持ちよく読んだ。なるほど、オタクはアイドルに熱狂さえしていれば、「資本主義」なる「大きな敵」に対した際の活劇的高揚すら味わうことができる。この言説は、確かに魅惑的である。しかし、本当にそれでいいのだろうか?熱狂する自身の身体への内省なくして「アシッドコミュニズム」ないし、「思想」は立ち上がるのだろうか?この、読み手としてのオタクに自省を強いるような記述の一切が省かれた文章(これは、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』に代表されるような、「葛藤」を強いる支配的とはいえないまでも、アイドルについての言説のシーンで有力な潮流と、真っ向から対立する態度である)に遭遇した時、それに確かに扇動されながら、私の脳裏に浮かぶ問いは一つの形に集約される。果たして、批判なき啓蒙は可能なのだろうか?

私はこの文章を、感情的に、大いなる共感を抱きつつ読んだ。上記の指摘はあくまで論考としての論理の穴を指摘したまでであり、エピュキュリアンとしての自分は、この文章が描こうとする絵図=ビジョンを積極的に肯定したいとも思う。ただ、論理展開へのの違和感が、その自分を理性的に批判する。私は、やはりこの文章を批評としてではなく、アジテーションとしてしか読めなかった。内実を欠いた「資本主義」打倒のための言説は、ただスローガンとしてしか受け止められない。それは、あくまで「資本主義」は打倒されるべきだと考える思想の持ち主たちが、互いの存在を相互に確認する、シグナルとしてしか機能しない。ことさらに「資本主義」の外部を希求せずとも、その内部から建設的にこの現実をより良いものへと変革していこうという想像力が、この文章からは全く欠如している。

そして何より私を不信感に陥らせるのは、実は本文自体ではない。この連載には、外部からなる(おそらく担当編集者?)キャッチコピーと、副題が付されている。曰く"国民的アイドルグループの歩みから、資本主義社会の「地獄」を生き抜くヒントを探る──。"、"〜この地獄を生き抜くためのアイドル批評〜"。

確かに、私は資本主義社会に「息苦しさ」を感じている(感じていない人もいるだろう)。しかし、私は資本主義社会を「地獄」とは感じていない(感じている人もいるだろう)。

ここで思い起こされるのは、山形浩生による書籍、『前田敦子はキリストを超えた』(濱野智史)の批判的書評である。ここにリンクを貼るので、この文章に目を通している方には、まず全文を読んでみてほしいが(さして長い文章ではない)個人的に重要と思えた箇所を引用する。(この文章を読んだことで、私はうまく言語化できなかったこのキャッチコピーと副題に関する違和感を、以下のようにして言葉にすることができた)。

そうそう、ぼくが本書でもう一つ耐えがたかったのは、もう本を捨てちゃったので正確には覚えてないが、序文の最後あたりにあった「この世には希望が全然なくて、だからアキバ48の与えてくれる希望が云々」というくだらない安っぽい絶望だった。世界は希望に満ちていて、もちろん完璧ではないけれど、だからこそまだ改善の余地があって、そしてそれはこの世界というマクロなものだけでなく、この卑小な自分自身にすら希望がある――それが見えない、あるいは見ようとしない人は、無能か怠慢か、よくもあしくもおめでたいか、そのすべてかでしかないのだ。

資本主義社会の「息苦しさ」に乗じて、それが「地獄」のようであるというのは容易い。前述と矛盾するようだが、確かに私にだって「地獄」のようにすら感じられる瞬間がある。しかし、そのような感情的なレトリックの扇動に、啓蒙や批評は安易に背中を預けるべきではない。そもそも、資本主義社会を「地獄」のように感じる感性がどれほど一般的なものなのだろう(あるいは各種SNSの、それぞれのフィルターバブルの内では、一般的な感性と錯誤する可能性が生じ得るのかもしれない)。ただその上で、あくまで私たちの「息苦しさ」を解消させる可能性が、資本主義の外部であったり、打倒であったりにしか(根本的には)存在しないという思想的立場を、私は否定しない。ここで私が批判したいと思うのは、あくまで批判的な啓蒙を回避する理路を探ろうとしているこの論考(そして私は個人的に、その志向には賛成である)のキャッチコピーないし副題が「悲観的啓蒙」に陥ってしまっている矛盾である。特にこのキャッチコピーないし副題は「資本主義社会が地獄」であるという、そう感じない人もいるだろう認識を、前提のものとして提示してしまっている。これは、この論考の論理的な穴による、本文の資本主義打倒論者たちのシグナルとしてのみの機能を高めるばかりか、この文章のとば口に至る読者層をいたずらに限定させる言説的効果を担ってしまっているように思える。啓蒙や批評は、資本主義社会が「地獄」であるゆえに打倒すべきだと考える限定的な顧客に対しての文章として自閉すべきではない、それは、一度も資本主義社会が「地獄」だとは感じたことがないような読者層にまでひらかれるべきである、とここまでは一般論だが、この連載の志にある程度共感的であるからこそ、この文章に、個別に、私は思う。

批判的啓蒙を回避するために悲観的啓蒙に陥るべきではない。

付言

「卒業」について。個人的な見解としては、むしろ「卒業」はどのようにもアナロジーできてしまう受け手の饒舌さへの誘惑がその本質を見誤らせているように見受けられ、ただ「卒業」を「卒業」として受け止める、(一義として受け止める)言説環境の構築こそが、その本質へと接近するためには有効なのではという直感を抱いている。ただしこれはあくまで現時点での直感であり、何らの論理的な背景があるわけでもない。これに関しては、引き続き考えていきたい。

批判なき啓蒙について。エピキュリアンとしての私が、この文章に対しての共感的であるというのは前述した。その上で理性がアイドルに対して享楽的で内省のない自画像を否認する。この引き裂かれがやはりここでも「葛藤」に回収されてしまう。しかし、私はこの「乃木坂46、終末のユートピア」のような、相対的に研ぎ澄まされた文章を読むことで、そのような「葛藤」の支配から、かろうじて自由たる「批判なき啓蒙」に至る理路を(かぼそくも)感じ得た(気がする)。そもそも、このような文章を読む機会を得られなければ、私の普段の蒙昧な考えに取り憑かれた実生活において、「批判なき啓蒙」などといった難しげなことについて考えが至る機会は相当に限られる。なので、このような文章はとてもありがたい。その意味で、私はこの文章を、とても面白く読んだ。最終回となる第3回が、楽しみである。このnoteでは批判に終始したが、面白い文章であることに間違いはないので、みんな読むといいと思う。

追記(2022.12.29)

筆者の方からこのnoteに対してツイートで応答があったので、追記する形で再応答する。

商業誌における字数制限の窮屈さに関しては、もちろん「なるべく主観的な見解を排そうと努力した主観的な見解」の項を書いていた時、念頭にはあった。ただ前段のあくまで論理の穴を指摘する目的の批判に対しては、原稿外の補足的な説明によって(それはnoteの記事でもツイートでもなんでもいい)対応(反論)可能だと考えていた。(例えば、マックー・フィッシャーの唱える「アシッドコミュニズム」がどのようにして、ジョセフ・ヒースのカウンター・カルチャー批判を乗り越えるのか、個人的な見解を表明するだけでも十分である)。しかし、応答を受けた今ではその補足的な説明も、ことさらに必要なものではないと考えが変化した。なぜならば、筆者の応答において、この連載の第2回が、「アジテーションをすること」に眼目が置かれているという認識が表明されたからである。

さて、いま読み返してみると、再応答以前の本稿の記述のみではまるでアジテーションと批評が峻別されるものであるかの如く解される可能性に気づくが、当然のことながら、アジテーションと批評の境目は曖昧である。一般的に、批評はアジテーションを含みうるし、アジテーションは批評を含みうる。まるで批評のようにしか読めないアジテーションも存在するし、まるでアジテーションのようにしか読めない批評も存在するだろう。そのような認識のもとで、ではなぜ「私は、やはりこの文章を批評としてではなく、アジテーションとしてしか読めなかった。」と書いたのかと問われれば、それは、私がこの「乃木坂46、終末のユートピア〜この地獄を生き抜くためのアイドル批評〜」第2回に批評の含有を認められなかったからである。ここにおいて、筆者と私の決定的な見解の相違があらわになる。つまり筆者は「コンテンツとコンテンツが“繋がること”」を「批評的快楽」の源泉とし、そこに「達成」をみるわけだが、私はそうは考えない。あるいはより適切にこう言い換えられる。確かにコンテンツとコンテンツが接続されることで生じる批評的快楽は存在する。しかし、その事実が、あらゆる接続を批評的快楽の源泉として常に肯定するとは限らない。むしろ接続によって発見される類似が、コンテンツ間の当然の差異を捨象し、批評を遠ざける事例もあり得る。私の問題意識は一言でいえば、「過接続への懸念」である。これに関しては後の論点にも通底するものがあるので詳しくは後述する。

やや迂回してしまったが、これから応答を受け自分の考えが変化した理由を述べる。つまりはこういうことである。この連載がアジテーションであるという前提を受け入れると、素直に動員された読者がマーク・フィッシャーなりなんなりの思想書に手を伸ばす契機さえ用意できれば、この文章の目論見は十二分に達成できたと言えるのである。ならば、この文章に批評の水準を満たす説得力を望むのは、一読者である私の傲慢であると言えるだろう(タイトルに批評と題されていることへの違和感は残るが、あくまでこの文章に批評の含有を認めないのは私個人の問題意識に起因するため、無視できる)。原稿外の補足的な説明を、「有用性」や説得力を度外視した文章に対して求めるのは、お門違いなのだ。

再応答の論旨の流れからして、引用する応答の順序が若干前後してしまうのだが、先にこの「自己啓発」をめぐる論点について片付けておきたい。とはいってもこの論点に関してはさしたる見解の相違は認められないように思う。まさしく「今言われてるバッドイメージな“自己啓発”」に絡め取られないために、このnoteにおける記述では「ここでの「自己啓発」はそれ自体として否定的な見解を伴わない。一般的に「自己啓発」によって生が豊かになることもあれば、貧しくなることもある。」と留保したのであり、そのような否定的なイメージの印象と、「人生の豊かさ」の要因となる「文化的な“自己啓発”」が切り離されるべきだという応答における主張には、何ら疑義を呈する必要がない。ここで私が主張したかったのは、応答の言葉を借りれば、乃木坂の共同体と「アシッドコミュニズム」の接続が人生の豊かさに資する「文化的な“自己啓発”」たるには、やはり説得的な記述が(この連載回においては)欠けているように思うし、内実を欠き空洞化した「自己啓発」は、例えば齋藤飛鳥表紙の雑誌、「sweet 2023年 01月号」におけるコピー"推しのために可愛くなる!"などといった欺瞞含みの(現物を読んだわけではないので不誠実な推測だが)「アイドル」などの対象の周辺をめぐる「自己啓発」と、その外貌からして見分けがつかないだろうという指摘である。

乃木坂の共同体と「アシッドコミュニズム」の接続が人生の豊かさに資する「文化的な“自己啓発」として説得的足るには、さらなる記述が重ねられるべきであろうし、もちろんその記述の不足の責任が連載の筆者に帰されるべきでもない。まずもって「自己啓発」の論点を用意したのは、連載に応答した私自身であるし、前述のように、アジテーションたる連載に記述の不足を指摘するのはお門違いである。ゆえに、この再応答自体が、人生の豊かさに資する「文化的な“自己啓発”」による、「バッドイメージな“自己啓発”」の刷新に資するような言説の蓄積の一助となれば幸いである。

さて何より私が反省しなければならないのは、この応答に関してである。「卒業にホルガ村の人生と季節の関係、つまり輪廻転生のイメージを与えている」。全くもってその通りであり、この指摘に対して、私は何ら反論することもできず、自らの誤りを認めるばかりである。まさしくこの指摘された箇所は「なるべく主観的な見解を排そうと努力した主観的な見解」の項において排されなかった、決定的な主観的見解の表出であり、つまり「「死」や「卒業」といった概念に、相互作用による何らかの新たな知見をもたらすことがない。」といった記述は、確実に修正されなければならない。ではどのような修正がなされるべきか?そのことについて記述してこの再応答の結びとしたい。

前述した「過接続への懸念」について、まずは坂道グループのドキュメンタリー映画への解釈をめぐって、説明を試みようと思う。ここで参照するのはぎんちゃん氏によるnote記事、「日向坂ドキュメンタリー「希望と絶望」が投げかけるものは?」である。といっても、ここでその解釈をめぐって取り上げる映画は、このnoteにおいて中心的な話題を占める『希望と絶望』ではない。欅坂に関してのドキュメンタリー『僕たちの嘘と真実』である。

このぎんちゃん氏によるnote記事は、映画『希望と絶望』の適切な整理として個人的にこれ以上ないと思える出色の文章であり、以下重箱の隅をつつくような批判的(?)参照に終始するのが心苦しくもあるのだが、私の抱える問題意識「過接続への懸念」の説明に関して、これ以上に取り上げるのに適切と思える文言もまた、思いつかなかった。とにかく良い文章なので、この再応答を読んでいる方には全文目を通してほしいが、この文章の論旨の理解に限れば、以下の引用部分を読めば十分と思う。

さて、該当の引用箇所である。

そして章タイトルである「ドキュメンタリー?映画?」について。率直な感想としては今作(『希望と絶望』:引用者註)は「ドキュメンタリー」ではあるが「映画」としての強度や迫力には欠けていて、構図や構成はやはりテレビの延長としてのパワー以上のものはあまり感じられなかったなと。映像としてのパワーはあると思うんですよ、けれども「映画」だったかなあと。そういう点で見たときに、映画的なパワーを持っていたのは欅坂のドキュメンタリーであり、乃木坂ドキュメンタリーの1作目だったなあと思うわけです。欅坂のそれは平手友梨奈という「不在の中心」であったし、「悲しみの忘れ方」は母親の語りという視点を持ち込んでいる

この文章において主張される見解に私はほとんど同意する。つまり(私なりに言い換えると)『希望と絶望』には「映画的見応え」が存在しないが、『僕たちの嘘と真実』にはそれが存在する(この再応答では乃木坂ドキュメンタリー映画についての記述には立ち入らない)。この見解に異を唱える鑑賞者も存在するだろうが、本稿を読む上ではその違和感に目をつぶって頂きたい。以下の記述は、『希望と絶望』に存在しない「映画的見応え」が『僕たちの嘘と真実』には存在する、という価値観(というよりも、『僕たちの嘘と真実』に「映画的見応え」が存在するという価値観を)自明のものとして重ねられていく。『僕たちの嘘と真実』に「映画的見応え」を感じなかった鑑賞者も、その実感は一度脇に置いて読んでいただけると幸いである。

ぎんちゃん氏と私の『僕たちの嘘と真実』の解釈をめぐる決定的な見解の相違は、この「映画的見応え」が何に担保されたものであるかという一点に尽きる。ぎんちゃん氏はそれを引用部で"欅坂のそれは平手友梨奈という「不在の中心」であった"として説明する。ここで、この再応答は、「不在の中心」という、ある種のフィクション類型をめぐる論点にシフトする。私は以下に、『僕たちの嘘と真実』の「映画的見応え」が「不在の中心」というフィクション類型の導入によって担保されたものではないと主張する。

そもそも、映画『僕たちの嘘と真実』において、平手友梨奈は本当に「不在の中心」たり得たのだろうか?ゴドーは徹底的に不在であることにより「不在の中心」たり得た。さりとて、平手は?

注目したいのは、映画の冒頭、「欅坂46 夏の全国アリーナツアー2019」の最終日、一人学校の制服姿の平手が出番前に周囲のメンバーに囲まれながらへたり込み、再び立ち上がるまでを捉えた一連のショットである。

浅く息を吐きながら座り込む平手を、カメラが上から下にゆっくりと追尾する。へたり込んだ平手の背中と、その肩を抱くメンバーのアップショットが短く挿入された後、そこから少し引いた画角で平手と周囲のメンバーを中心に、ライブ前のスタッフの様子も含めた雑然とした様子を映し出す。この際、へたり込む平手と周囲のメンバーの様子を撮影しようとカメラを構えるスタッフの存在が画面にはっきりと刻印され、こんどはそのスタッフの背後からの姿を収めるポジションにカメラが回り込み、ゆっくりと立ち上がる平手の姿が映像に収められる。(その時、間近でへたり込む平手を撮影していたカメラマンが同時に立ち上がる姿もまた、映画に組み込まれている)。

果たして、この場面を目撃した後でも、平手が映画『僕たちの嘘と真実』において「不在の中心」であるなどということが、説得的に響く余地はあるのだろうか?確かに『僕たちの嘘と真実』において、インタビューの欠落という形で平手は言語的に疎外されている。しかし、言語的な伝達のみが映画を映画たらしめる「映画的見応え」を成立させることは稀だろう。プレッシャーにゆっくりと押し潰されるようにへたり込む平手と(補足すれば、以上のショットは欅坂のメンバーたちの登場をいまかと待ちやむ観客たちの大歓声にも満たされている)、決して毅然としたとはいえない仕方で立ち上がるまでの平手の運動に、私たちは何らかの感慨を覚えるはずだ。この映画において、平手はその身を晒すことで、私たちに何がしかの情動を伝達せしめるのだし(当たり前のことだが、ダンスなどのパフォーマンスも非言語的な伝達である)その時私たちの眼前に(トートロジーのようだが)平手は存在するのである。ただ画面さえ観ていれば、この映画が「不在の中心」などといったフィクション類型を導入したものでないことは明らかだ。

では何が『僕たちの嘘と真実』の「映画的見応え」を担保しているのか?この再応答の目的は、それを明らかにすることにはない。ただ一つヒントになるのは、上記のショットで執拗に(映画の)カメラに収められるカメラマンの姿だ。彼のカメラのレンズを通した視線は、それそのままこの映画を鑑賞する私たちの視線であるし、もちろんその視線の重層化だけが、この映画の「映画的見応え」を担保するわけでもない。「映画的見応え」は複合的な要因によって私たちに経験され、その経験は遭遇する映画ごとに、何一つ同じということはない。私たちは「不在の中心」というフィクション類型、つまりは「構造」の発見ただ一点の上に胡坐をかいて、自らの経験を貶めるべきではない。

「構造」の発見は、コンテンツとコンテンツ間の接続を契機に見出される。平手はゴドーのようだ。つまりは「不在の中心」が『僕たちの嘘と真実』の見応えを担保している。しかし、上記のように、平手はゴドーではない。「構造」の発見は、時に私たちが当たり前のように見えていたはずのものに覆いをかける。あるいは私たちの認識自体に歪みを生じさせることすらある。以上が私が抱える「過接続への懸念」なる問題意識である。

「不在の中心」に関して、より一般的な説明として、以下のような仕方での反論もありえる。これから記述するようなエチュードの設定を、思い浮かべてもらいたい。ある地方の過疎地域の小学校において、幼馴染と呼べる間柄の男女混交の集団が存在した。やがて彼らは年を重ねるごとに都市やまた別の地方へと散らばっていき、互いに連絡を取り合うこともなく、関係性は疎遠になっていった。ある時、それぞれの元に一報が届く。それは、当時集団の中心的人物であり、一人その過疎地域に留まって生活を営んでいた男(もしくは女)が自死したという知らせであった。自殺者の葬式に参列する目的で里帰りし、久々の邂逅を果たした男女の、同窓会めいた二次会がエチュードの出発点である。

必然的に、この設定でなされるエチュードは、(余程の意識的な取り組みさえ介入しない限りは)「不在の中心」をめぐるドラマと化すだろう。そして、以降このエチュードでなされるやりとりが最終的に「見応え」を獲得するかどうかは、ひとえに演者と演出家の力量にのみ左右される。つまりは、ただそこに「不在の中心」という「構造」が発見されることは、何らの「見応え」を担保する理由としては(それ単体として)成立しないのである。「構造」がエチュードを何とか見ていられるものに仕立てることもあれば、それに引きづられて全てを台無しにすることもあるだろう。

長々とした迂回を経て、ようやく最初の問いに帰ってくることができた。確かに「乃木坂46、終末のユートピア〜この地獄を生き抜くためのアイドル批評〜」の第2回において、「卒業」なる概念には、映画『ミッドサマー』との接続を介した、「輪廻転生のイメージ」が与えられている。しかし、当たり前のことだが、集団女性アイドルが構造的に避け得ない「卒業」と「加入」のサイクルは、輪廻転生としては言表し(アナロジーし)得ない。なぜならば、どのアイドルも(どの人間も)、この一回性の生において、その人自身の生しか生きることができないからである。井上和は白石麻衣の生まれ変わりではない。コンテンツとコンテンツが接続され、そこに発見される「構造」によって見出される類似より、その「構造」そのものに覆い隠される当事者間の差異にこそ、敏感でありたい。なるほど、目の前のアイドルに、かつてのアイドルの面影を垣間見ることは起こり得るし、カルチャーとカルチャーの間を星座のように結びつけビジョンを占う強烈な快楽には、時として抗えないものがある。しかし、これまた当然のことながら、アイドルその当人は、コンテンツであり得ない。人間である。ここに応答を受け、再応答として、前述の記述を修正する。

「「死」や「卒業」といった概念に、私個人の価値観からして、何らかの批評的快楽が得られるような知見をもたらすことがない。」