「坂道らしさ」について語ること

「任意の坂道らしさ」と「ハッピーオーラ」についてベラベラお喋りすると、地獄で鬼に舌を引っこ抜かれるらしい……………………。












愚行権の行使!愚行権の行使!











というわけで、「任意の坂道らしさ」と「ハッピーオーラ」についての話をします。分析美学を専門とする研究者、松永伸司は美的判断(aesthetic judgment)と個人的趣味の判断(judgment of personal taste)を用語として分け、以下のように整理している。

美的判断 aesthetic judgment:美的価値や美的性質を対象に帰属すること。対象は芸術に限らない。正当な美的判断は美的経験にもとづいてなされる。

個人的趣味の判断 judgment of personal taste:対象に対する好き嫌いの表明。理由づけを求められることがないという点で、美的判断とは区別される。

松永伸司「スノッブのなにが悪いのか」(https://researchmap.jp/zmz/presentations/18328532/attachment_file.pdf)

ねえ
パクチー ピーマン グリーンピース
苦手なんだって君に打ち明けたら
子供か!って言われたけど
嬢なものは嫌なんだ
しょうがないよね

日向坂46「パクチー ピーマン グリーンピース」*1

個人的な食べ物の好き嫌いは、基本的に他人と共有しづらい。同じものを好きだったり、嫌いだったりすれば、多少なりとも共感が発生するかもしれないが、私はピーマンが苦手な人の感覚を理解(しようと努めることはできるが、根本的には)できないし、パクチーを好んで食べる人の味覚とも断絶を覚える。「嬢なものは嫌なんだ しょうがないよね」。

「任意の坂道らしさ」について語りたがる人と、語りたがらない人がいる。語りたがらない人からは「任意の坂道らしさ」についての語りは生じないので、「任意の坂道らしさ」について語りたがる人の「任意の坂道らしさ」についての語りが、必然的に検討される。人が、語りたがる人の語りに反発を覚えるとすれば、それは、その語りに「共有しづらい」感覚を覚えるからだろう。つまりは語りたがる人の語りが(程度問題、相対的に)反発を生むのは、その語りが「美的判断」でなく「個人的趣味の判断」に基づいていることに大抵は起因する。

「個人的趣味の判断」に基づく語りになく、「美的判断」に基づく語りにあるインセンティブは、「共有しづらさ」の払拭だ。「共有しやすい」語りは、グループの継続的活動に重大に資する、新規顧客層の開拓のための「布教」や「口コミ」の根拠となる。

「任意の坂道らしさ」について語りたがる人と語りたがらない人は、それぞれ外向的オタク、内向的オタクと言い換えられるかもしれない(ちなみに私の自認は後者)。ざっくばらんに「私の好きを他者と共有したい」⇔「私の好きは私だけのものでいい」*2という価値観の相違。外向的オタク、内向的オタクそれぞれ(いうまでもないことだが、実際はキッパリ分かれるわけではなく、内心的にもグラデーションだ)の間のやりとりに不毛な印象が拭えないとすれば、そもそも検討の対象となる語りたがる人の語りが、「理由づけを求められることがな」く「共有しづらい」「個人的趣味の判断」に基づいてなされている可能性が高い。そして「布教」や「口コミ」として、語りの生産性を望むならば(もちろん「任意の坂道らしさ」について「個人的趣味の判断」に基づき、好き嫌いに終始する「自己満足」の語りは、それ自体として何ら批判される謂れはない)外向的オタクは、「美的判断」に基づいた発信を心がけるべきだろう。

その上で、語りたがる外向的オタクの立場を部分的に擁護すると、アイドルカルチャーは他の文化領域と比較しても、まだまだ美的基準の制度が(曲がりなりにも)確立されているとは言いがたい分野である。大雑把に言って、アートの領域では、作品の発表と評論、批評による価値付けの(トーシロなので健全かどうかは知らない)循環が歴史的に蓄積されており、対象を「名作」や「クラシック」として文化史に明記されるようなものとして担ぎ上げる制度が整っている。他方、アイドルカルチャーに「名作」や「クラシック」といった概念はそぐわない(「名曲」は存在するが、これは音楽の美的基準の制度内での一角にその位置を占めているといったほうが適切だろう)。なので、基本的に語りたがる外向的オタクは、獣道を行く存在である。美的な基準が十分に確立されていない環境で、美しさについて語る難しさがある(とまとめてしまうと、特段アイドルカルチャーに限られた話ではなくなってしまうが)。

また、語りたがらない内向的オタクは、語りたがる外向的オタクの恩恵を常に受けているとも言える。当然ながら「私の好きは私だけのものでいい」と欲望できる環境は、無から生えてくるものではない。その状況を保証する安定的なコンテンツの供給は、往々にして、外向的オタクの語りによる「布教」や「口コミ」(=営業努力)の成果が巡り巡って還元されたものだろう。

さて、ここから「任意の坂道らしさ」の中でも「日向坂らしさ」の話、具体的には「ハッピーオーラ」についての話を「共有しやすい」語りとして語りたい(つまりは建設的なやりとりの土台となるようなテキストを記述したい。感想お待ちしております)*3。「美的判断」の条件は、「美的価値や美的性質を対象に帰属すること」。もしかすると以下の記述は必ずしも「美的判断」に基づいた語りではないかもしれないが、条件の遵守は心がける。一次資料としての日向坂メンバーの発信に「帰属」する「ハッピーオーラ」についての語りを敷衍して、「日向坂らしさ」について語ることについて、一定の見通しを提示したい*4。

「ハッピーオーラ」の来歴を端的に。「ハッピーオーラ」なるグループのキャッチコピーないしコンセプトは、日向坂改名以前のけやき坂46としての活動時に、メンバー長濱ねるの事実上の脱退(欅坂46専任)に端を発し生じたものであることが、書籍『日向坂ストーリー』に「正史」として記載されている。当時全国ツアーを間近に控えたタイミングでのグループの中心的存在だった長濱の脱退に、残された他のメンバーたちは深刻なアイデンティティの喪失を経験したとされ、そんな折に周囲のスタッフ、つまりメンバーたちの外部から付与された「ハッピーオーラ」という文言は、その喪失を埋め、アイデンティティを回復するための「言霊」として機能することを目的に、対外的なレッテルとしての商業的要請も含めて以降のグループの活動と並走し始めることとなる。

以上の認識を共有した上で、出発点としたいメンバーの発信の一方は、「BRODY」2022年2月号の一期生インタビューにおける発言である。重要部を以下に引用する。

「ハッピーオーラ」という言葉を自分たちから使うことは少なくなりました。

齊藤京子による発言

いまは自分たちから発信するのは違うかなと思ってます。

潮紗理菜による発言

「ハッピーオーラ」に代わるキャッチフレーズを作る必要はないと思うんです。ひとつに決めると、それしかできないようなイメージを与えてしまうし、その言葉に縛られてしまうかもしれない。(中略)多様性のあるグループになりたいと思ってます。

佐々木久美による発言

また、参照したいメンバーの発信のもう一方は、「渡邉美穂 卒業セレモニー」の渡邉さんのスピーチと、「4回目のひな誕祭」の丹生ちゃんのMC及び開催直後のブログにおける発言である。重要部を以下に引用する。

1期生の皆さんのあの明るさに、私も本当に励まされたし、やっぱりこのハッピーオーラの根源というか、このグループの雰囲気っていうのは、1期生がいなかったら、きっと作られなかったものだし。

センターだからと全てを背負うのは違うんだと、教えていただきました。

皆んなを信じて!

メンバーみんなでハッピーオーラを届けたいです😆

「ハッピーオーラ」について、メンバーの発信に帰属して語るとき、まず念頭に置かなければならないのは、当事者であるメンバー間での見解の相違である。渡邉さんが「ハッピーオーラの根源」として語る一期生自身は、わりと「ハッピーオーラもうええて」なテンション(2022年当時)*5。この「ズレ」こそが注目されなければならない。

要するに、「ハッピーオーラ」という文言が日向坂の活動において受け手に際立って感受される時、それはメンバーの「総意」によるものでなく、特定メンバーの「解釈の優勢」に起因するのだ。「ハッピーオーラ」が今の日向坂には「そぐわない」という一期生の解釈と、「ハッピーオーラ」が今の日向坂には「そぐう」という丹生ちゃんの解釈の対立。とどのつまり、それらはメンバー自身による「日向坂らしさ」の解釈と、その相違による対立である。「4回目のひな誕祭」にて、センターという特権的なポジションから発信されることで、「日向坂らしさ」=「ハッピーオーラ」という丹生ちゃんの認識は、優勢な解釈として観衆にも印象付けられる。

以上の記述は、何が「ハッピーオーラ」の解釈として正当かを問うものではない。それよりもずっと重要なのは、「ハッピーオーラ」から敷衍して「日向坂らしさ」の「美的判断」をメンバーの発信に帰属して受け手が行おうとする時、大所帯グループに属すメンバーの「総意」を想定するのは、あまりにナイーブで、現実を無視した見方にすぎるということだ*6。実際のところ、私たちはそれぞれに「ズレ」て食い違うメンバーの発信を吟味し、「重み付け」する(または「軽視」する)ことで、判断を行う必要がある。

現状、私が「ハッピーオーラ」の「美的判断」に基づいて何事かを語るとすれば、まず「重み付け」(第一に重要視)するのは渡邉さんの発言である(要因は様々に考えられる気もするが、端的に「推し」であるからな気がする)。つまり、いくら一期生が「ハッピーオーラもうええて」なテンションであろうとも、渡邉さんが言うのだから、結局一期生は「ハッピーオーラの根源」なのであって(来歴も加味)、一期生のアイデンティティは、ファンダメンタルに日向坂のアイデンティティなのだからこそ、「日向坂らしさ」とは「ハッピーオーラ」なのである(丹生ちゃんの解釈も加味)。

渡邉さんのスピーチは、日向坂のメンバーを「ハッピーオーラの根源」な一期生と、「派生的なハッピーオーラ」の二期、三期生に腑分けする発言としても解釈できる。その上で、「4回目のひな誕祭」における丹生ちゃんのメッセージは、ファンダメンタルな日向坂のアイデンティティの「引き受け」として読まれるべきだろう。レペゼン日向坂。リスペクトする一期生がグループを牽引してきたように、自らが日向坂を代表し、一期生然として足ること。そうして「メンバーみんなでハッピーオーラを届け」ようとするとき、顕在化するのは、日向坂メンバー全32人の「総一期生化」とでも呼称できるような(またはその準備としての)祝祭的空間である。

「最強可愛いハッピーオーラ! 天真爛漫!にぶにぶしい!!」良い惹句

披露目のドキュメンタリーから、メディア越しの広告としての「ハッピーオーラ」に受けた影響を口々に語る四期生。またそれ以降の後続の世代が、「ハッピーオーラ」に限らずとも、「日向坂らしさ」のアイデンティティを当事者として「引き受け」ようとするとき、都度何もかもは懐かしく、新しく、生き直されるのだ。


*1. メンバー解説付きの「日向坂46 9th ミニライブ」で河田さんがみくにんの野菜嫌いをイジっており、ニッコリ笑顔。河田さんのちょっかい、こんなんなんぼあってもいいですからね。

*2. 私がいま消費者としてアイドルを楽しんでいられればそれで充足するのであって、その楽しさを外部へと共有するようなプレゼンテーションを行う意義がさして見出せず、アイドルグループの持続性に関しても相対的に関心が薄い。

*3. ではなぜこんなことを書いてるのかというと、こと「日向坂らしさ」や「ハッピーオーラ」の話題になると、メンバーのそれぞれに食い違う発言の多様性が等閑視されるイメージ(偏見かもしれない)を抱いているからである。

*4. 私のアイドルへの関心は、ほとんどメンバー同士のやりとりのバリエーションにその欲望を占められていて、具体的には、心身ともに健康そうな様子のメンバーたちが仲良くわちゃわちゃしている様子だけをずっと眺めていたい、という願望に尽きる。換言すれば、グループのクリエイティビティに対しての関心が薄く、当然「日向坂らしさ」は表象からも活発に読まれるべきと考えるが、モチベーションが皆無である。というか、こんな長々と書いておいてなんだが、「日向坂らしさ」とかわりとどうでもいい。メンバーが万事に先立つのであって、日向坂というプロダクトは後からついてくるものに過ぎない。はやく次の四期生SHOWROOMペア配信がみたい。【納涼】生配信、ありがてぇのぉ…。

*5.「BRODY」2022年2月号のインタビューを一期生の「総意」として解釈するのは明確に誤りで(まず身も蓋もないことをいえば、現在は考え方が変化しているかもしれない)例えば、かとしは「BRODY」 2023年6月号に掲載の「セットリストの中で、印象に残っている楽曲」は?というアンケートの設問に「ハッピーオーラ」のタイトルを挙げ、「やっぱり日向坂には"ハッピーオーラ"というキーワードが大切だなと思いました。」とコメントを残している。

*6. 私が、メンバーの発信を受け手が安直に「総意」として解釈するような姿勢に対して警戒心を示すのは、文中でも引用した久美さんの発言を過度に「重み付け」しているからだろう。「「ハッピーオーラ」に代わるキャッチフレーズを作る必要はないと思うんです。ひとつに決めると、それしかできないようなイメージを与えてしまうし、その言葉に縛られてしまうかもしれない。」久美さんの抱える(束縛性の)「言葉」や(現実を糊塗する)「物語」への不信を前にして躊躇いを覚えない饒舌な「日向坂らしさ」についての語りに、私は生産的な意義を見出すことができない。