池戸万作(@mansaku_ikedo)と成田悠輔(@narita_yusuke)とのABEMAでの議論に思うこと
池戸万作が成田悠輔と議論した。以下では、筆者は池戸万作を含む大和民族の民族的な問題点を提示する。
1章 認識の欠如
【儒教系統の認識】
大和民族は物事それ自体をうまく認識していない。
大和民族は物事それ自体をうまく認識していない。そのため、彼らは学者それ自体を認識していない。彼らは論文それ自体を認識していない。その結果、彼らは学者でないものを学者のように扱っている。
上記でも指摘されているが、池戸はちゃんとした論文を書いていない一方、成田はちゃんとした査読論文を書いている。この時点で、筆者は成田の分析のみを聞き、池戸の分析を聞く必要はないと認識する。
また、上記では、池戸は修士論文を書いたと言ったが、筆者はその論文がどの雑誌に掲載されて、かつどの程度引用されたのかを知りたい。一般的に、大和民族の
文系学者は論文でないものを論文と誤魔化す。
2章 論文の欠如
【儒教系統の認識】
大和民族の社会では、論文を書いていない主体が学者と呼ばれるので、池戸のような人物が学者?のような何かとして登場する。
大和民族の社会では、論文を書いていない主体が学者と呼ばれるので、池戸のような人物が学者?のような何かとして登場する。これは池戸だけの責任でない。
例えば、三浦瑠璃や木村草太もまたまともな査読論文を書いていない。有馬哲夫も同類。にも関わらず、彼らは国際政治学者や憲法学者と呼ばれている。この状態が存在するので、池戸もまた「じゃあ、俺が学者のように振る舞っても良い」と誤認識する。
現状では、大和民族は経済学者を経済現象の分析者でなく、自己の不安を取り除いて、安心感を与えてくれる占い師や祈祷師か何かであると思っているように思える。少なくとも、筆者の印象では、大和民族は経済学者に経済現象の分析を望んでいないように見える。
3章 学問や学者の欠如
【儒教系統の認識】
大和民族は学者や学問が何であるのかを認識していない。
大和民族は学者や学問が何であるのかを認識していない。言い換えると、学者に対する固定された認識が存在しない。または、彼らは分析行為を統治行為から分離させられていない。筆者の認識では、学者は「分析者」である。
例えると、設計者がサッカーシステムを設計して、統治者がそのシステムを統治する。選手がその授けれたシステムの中で競技する。最後に、分析者(学者)がそのシステムを分析する。
上記の発言を見るとわかるように、池戸は経済学が何であるのかを認識していない。一般人の認識では、経済学は経済現象を分析する営みである。ただし、池戸がこのような認識(本能?)を持つのは彼だけの責任でない。
実際、大和民族の学者は「勉強や研究を頑張ったご褒美として、政府に口をだすご意見番」のように振る舞っている。彼らは真理を主張すれば、国民や政治家をその真理で動かすことができると誤認識している。彼らは命令者のように振る舞っている。
大和民族の学者それ自体が学問や学者をうまく認識していない。彼らは分析できない、まともな査読論文を書いていない、でも国民や政治家に偉そうに命令してくる。オタク的な知識を振り回してくる。
このような状況が存在すれば、池戸のような人物が登場するのも不思議ではない。大和民族の学者それ自体が分析という彼らの職務を認識していない。なお、ダメ教授とは経済現象を分析できない教授であり、経済成長させられない教授でない。
おまけ
また、下記の呟きは非常に参考になる。Calciは関西人の医者であり、Jun Makinoは岐阜出身?の関西人かどうかは不明である学者である。
上記の医者も学者も自己の職務を認識していないように見える。医者は人体修理者であり、学者は分析者である。しかし、彼らは統治者(政府)が彼らのいうことに従うべきであると誤認識している。
もしそうであるならば、彼らは統治者(政府)の統治者である。しかし、彼らは民主制で選択されていないので、彼らは統治者の正当性を持っていない。にも関わらず、彼らは統治者に彼らのいうことを聞かせようとする。
彼らの行為は池戸万作の行為に似ている。池戸万作もまた政府に「〜すべき」のような提言をしている。なぜなら、彼もまたCalciやJun Makinoのように「俺の真理に政府が従うべきである」と誤認識している。
しかし、池戸万作の実態は設計者でもない、統治者でもない、競技者でもない、そして分析者でもない。彼はシステムを設計できないし、システムを統治もできない。
彼はシステムの中で競技をして、富を獲得することもできない。そして、彼は分析をして、論文を書くこともできない。池戸万作は評論家を名乗り、ただ何かを話し、何かを「すべき」と命令してくるだけの何かである。
CalciやJun Makinoも成田も人体修理者や学者(分析者)として授けられたシステムの中で競技してきた。一方で、池戸はどうなのだろうか?
おまけ2
上記の人物もそうである。彼は「研究者よりも漁業者の方が立場が強い」や「研究者の方が発言権が強くある構造が必要と思う」と言っているが、彼は統治が何であるのかをわかっていない。
漁業者は研究者の発言に従う必要はない。なぜなら、研究者は統治者でない。しかし、彼は真理を主張すれば、命令系統や法律なしに、彼は他人を動かせる(統治)できると考えているので、彼は上記のような発言を繰り返す。
この勘違いは池戸のような存在を導く。彼もまた真理を主張すれば、命令系統や法律なしに、彼は他人を動かせる(統治)できると考えている。だからこそ、彼は動画のような話し方をしたり、他人に命令したりする。
その結果として、有馬哲夫を含む文系の学者のように、他人に社会を作ってもらおうとするが、自分は社会を作るつもりはない、しかし、気に食わない、不安を覚える何かが出てくるとまるで客や王のように、いちゃもんをつけてくる正体不明の何かが際限なく生まれてくる。
上記のような環境が生まれてくるのは、単なる競技者が統治を反ソサエティのために嫌うからである。彼らは統治を嫌がり、統治者を排除するので、統治の権限が曖昧になり、上記のような漁業者や池戸や学者が生じてしまう。
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