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【インチキ?】なぜ望月新一のIUTは”うさんくさい”のか?②【中野太郎】

 この文章は上記の継続である。この文章では、俺は望月新一のIUTの”うさんくささ”を論文の製造の観点から提示する。当然、この文章は部外者の視点である。数学対話に使用してほしい。


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変則

 俺の認識
 (1)論文の製造が変則的である。

 論文の製造が変則的である。だから、俺はIUTを信用しない。言い換えると、もし論文の製造が変則的であるならば、俺はIUTを信用しない。

 例えば、飛行機の天才技術者が「すごい飛行機を作った。でも、政府や会社の製造過程に従っていない」と言った。このとき、俺はこの飛行機に乗らない。なぜなら、怖くて乗れない。自動車も同様である。

 同様に、IUTは論文の執筆から査読の終了までの過程は規則的でなく、変則的である(ように見える)。だから、俺はIUTを正しいと言えない。

社会システムと製造

 俺の認識
 (1)ある論文が信用可能であるのかは、その論文が社会システムに沿って正常に製造されたかである。

 言い換えると、もしある論文が社会システムに沿って正常に製造されたならば、その論文は信用可能である。IUTの場合、IUTが既存の数学システムにそって正常に製造されたならば、その論文は一般の民にとっても信用可能である。

 しかし、IUTはそうでない。IUTという論文の製造過程は既存の数学システムにそって正常に製造されていないように見える。だからこそ、数学の世界で、問題や議論が発生している。

 一般の民にとって、論文が正しいのかどうかは、論文の内容でなく論文の製造の過程が信用可能であるのかである。なぜなら、一般の民は論文の内容それ自体を理解できない。だから、製造過程に注目する。

 この考えは食品や自動車などの製品にも応用される。ある食品が信用可能であるのかは、その食品が食品業界の規則に沿って正常に製造されたかどうかである。正常に製造されたなら、その食品は信用可能である。だから、俺らはその食品を信用して、その食品を食べる。

勘違い

 俺の認識
 (1)部外者は論文の内容の正しさに興味を持たない。

 大和民族の数学者とIUTの信者は(1)を理解していない。だから、彼らはIUTを読めと言ったり、「数学を理解していないくせに」と返答する。

 上記で述べたように、一般の民は論文の内容よりも製造の過程や社会システムに着目する。ある論文がちゃんとした社会システムにそって製造されたのか、その論文が既存のシステムに沿って規則的に製造されたのか、これらに着目する。

 食品や車に関して、数学者自身もそうであるだろう。彼らもまた自分の乗る車、自分の食べる車ですら理解していないはずである。しかし、それらは法にそってちゃんと製造されているので、彼らはそれらを信用して、乗り回したり、食品を口に入れたりする。



 



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