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信仰するとは何であるのか?〜俺ら(katotoorera)の政治信条〜

以下では、筆者は信仰するとは何であるのかを提示する。下記の文章はコーカサス人種的な信仰であるかもしれない。

1.0 背景

【背景】
大和民族は信仰するという行為を認識してこなかった。

大和民族は信仰するという行為を認識してこなかった。彼らはその行為を感じるや見る、感動する、何かに盲目的に縋り付くと誤認識してきたように見える。酷い場合には、彼らは目を瞑ってお祈りする行為を信仰すると誤認識してきた。

しかし、これらの行為は信仰するという行為でない。そのため、彼らは「俺は見えたものしか信じない。だから、俺は神を信仰しない」と返答してきた。しかし、見るという行為は信仰するという行為でない。

2.0 信仰する

【儒教系統の認識】
(1)信仰するは行為である、かつある主体がある対象が実際的であると考える。
(2)信仰するは行為である、かつある主体がある対象が正しいと考える。

信仰するは行為である、かつある主体がある対象が実際的であると考える。信仰するは行為である、かつある主体がある対象が正しいと考える。

つまり、信仰するとは考えることである。信仰することは見ることでない。信仰するとは感じることでない。信仰するとは考えることである。それは人工的な思考である。

(1)の例では、創造主を信仰するとは、行為である、かつある主体が創造主が実際的であると考える。(2)の例では、人間平等を信仰するとは、行為である、かつある主体が人間平等が正しいと考える。

3.0 思考の産物としての創造主

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