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多面主義:必要性と十分性への制御

多くのイデオロギー(主義)は、最重要視する価値を決めて、それを最大化することを目指します。

こうしたイデオロギーは、一面主義という潜在的なメタイデオロギーの枠に入っているサブイデオロギーと言えます。

これに対して多面主義という立場があり得ます。多面主義は、様々な価値の組み合わせを重視する考え方です。多面主義は、この価値の組み合わせパターンの数だけ考えられます。

この記事では、一面主義の問題を指摘しつつ、多面主義という考えを掘り下げていきます。

■多面主義の実装とトレードオフ

複数の価値は、互いに協調する事もあれば、矛盾や競合する場合もあります。矛盾や競合に対してどう対処するかに無数のパターンがあり得ます。このため、同じ価値を組み合わせた場合でも、その実装や外観は大きく異なる場合があります。

矛盾や競合のことを、トレードオフと言います。例えば、個人間の平等を重視すると、個人の自由が大きく制限されます。社会福祉を充実させると、税負担が大きくなり経済成長を阻害します。

このように何かを達成したり重視することが、別の何かを犠牲にすることになる関係がトレードオフです。

■トレードオフ不可避の法則

観念的な話になりますが、何かを得れば、必ず別の何かを失います。何も失うことなく得られるものはありません。

何も失うことなく得られるものも、あるのではないかと思うかもしれません。例えばある知識を得ることは、一見何も失っていないように思えます。

しかし、その知識を持っていなければ得られたはずのものを失っています。知識を持っているがために、その知識に基づいて行動を選択します。多くの場合、知識を持って選択した行動の方が有益です。しかし絶対ではありません。知らなければ別の選択をし、その選択によって得られるものがあるなら、それを失っています。

これは厳密に考えると、全ての選択にはトレードオフが存在していることを意味します。何もしないという選択にですらトレードオフがあります。これをトレードオフ不可避の法則と呼ぶことにします。

■トレードオフの性質

トレードオフ不可避の法則の中で私たちが合理的に行動するためには、何が手に入るかだけではなく、何が失われるのかを把握する必要があります。

通常、それぞれの物事や価値には、得られている量や達成されている度合いがあります。量や度合いが小さい状態と大きい状態では、それを増やすことで失うものの量や度合いが異なる事が多くあります。一般的に、まだ小さい状態に対して増やすためには、失うものものが小さくて済みます。しかし既に大きい状態に対してさらに増やすためには、失うものが大きくなります。

これは特に人間の感じる価値観や満足に対しては非常に良く当てはまります。食事の美味しさを考えてみても、あまり美味しくないものとそれなりに美味しいものは、少しのコストや工夫の差で済みます。しかし、既に十分に美味しい食事をさらに美味しくするためには、多くのコストや工夫が必要になるでしょう。

社会的な福祉制度を考えてみても、制度が不足している状況に対してそれなりのコストをかけると、社会的な満足は上昇するでしょう。しかし、制度が充実している状況でさらに社会的な満足を上昇させようとすれば、多くのコストが必要になるはずです。

■最小損失による最大利得

トレードオフ不可避の法則とトレードオフの性質を考慮すると、一面主義的に1つの価値をどこまでも追求することは非現実で不合理あることが分かります。1つの価値を追求すればするほど、他の多数の価値を大きく失っていくためです。

このことが、多面主義の正当性の根拠になります。多面主義では様々な価値の間で起きるトレードオフのバランスを取り、失うものを最小化して得られるものを最大化することを目指します。最小損失による最大利得です。

■主観的な意思決定の義務

最小損失による最大利得を目指すためには、複数の価値の間で、失われる量と得られる量を比較して判断する必要があります。この比較はほとんどの場合、単純比較ができません。

例えば失う金銭の量を比較したり、費やす時間を比較することは単純にできますし、金銭と時間も、時給換算などである程度比較する方策はあります。しかし、1時間を失って友人に会って楽しみを得ることが、最小損失による最大利得の観点から妥当かどうかは、単純には比較できません。

このため、最小損失による最大利得に基づく意志決定は、主観的にならざるを得ません。その価値が本当にあるかどうかは、他の誰かには決してわかりません。本人の価値観やその時の状況などを、総合的に捉えて、本人が主観的に意思決定するしかありません。

このため、多面主義は必然的に、本人の意思を尊重することになります。そして、より厳しい見方をすれば、本人が意志決定を行わなければならないという、主観的な意思決定の義務を課しているとも言えます。

この義務は、社会が個人に与えている行動の自由と制限の範囲内での意志決定の結果が、最小損失による最大利得により近づくかどうかは、本人の責任であるという事です。

■必要性の原則と十分性の理解

最小損失による最大利得を目指すためには、戦略的な思考が重要です。一つの価値を追求するのであれば単純ですが、複数の価値のバランスを取る事は複雑な判断を必要とするためです。

ここで重要なことは、様々な価値について、最低限必要な量や度合いはどれくらいかを把握することです。重視している価値の全てが、最低限必要なラインを越えることが重要であるためです。他の価値をどんなに多く得たとしても、ある1つの価値が最低限必要なラインを下回っていれば、大きな不満となります。

例えば生存を考えると、水と食料が必要ですが食料は大量にあるけれど水が不足しているのであれば、より多くの食料を獲得するための行動を選択することは意味がありません。その人の幸福に金銭と人間関係の豊かさが重要であるなら、既に大量の資産を持っているけれども良好な人間関係が希薄な人が、さらに資産を増やすことは幸福につながりません。

これを必要性の原理と呼ぶことにします。

また、必要なラインを越えても、より多くを持っていた方が満足度が高くなります。しかし、あるラインを越えると、それ以上その価値の見かけ上の度合いを増やしても本人にとって意味をなさなくなるラインがあります。

トレードオフ不可避の法則があるため、増やしても意味がない価値を増やすことは、単純に他の価値を失いことを意味します。このラインを把握することを、充分性の理解と呼ぶことにします。

重視している複数の価値のそれぞれについて、必要性の原理と十分性の理解に基づいて意志決定することが、最小損失による最大利得を目指すための戦略の、最も基本的な考え方になります。

■価値の制御能力

多面主義は、複数の価値のバランスを取る事だという捉え方もできますが、必要性と十分性の観点からは別の見方ができます。

それぞれの価値について、自分自身の必要性と十分性を理解することができたら、全ての価値が必要性と十分性の範囲内に収まるようにする必要があります。

これは、価値の間のバランスを取るよりも、まず、それぞれの価値を必要性と十分性の範囲内に制御することが重要であり、より本質的だということです。したがって、多面主義の実現においては、複数の価値のバランスを取る能力よりも、まず個々の価値の制御能力を身に着けることが重要です。

■価値の制御の例

例えば、収入が全体で100ある人が、衣・食・住の3分野にそれぞれ最低20は必要だと考え、さらに貯金を20する必要があると考えたとします。かつ、それぞれ最大でも30あれば十分すぎるとします。

この時、100を衣・食・住+貯金の4つに25ずつ割り振ることが、バランスを取るという考え方です。しかし、必要性と十分性を満たすためには、それぞれに20ずつ割り振り、残った20は十分性を超えない範囲でどこに割り振っても良いはずです。

これが一か月の間の出費だとして、月末近くになって既に食と住が30に達しており、衣に10しか使っていなかったとします。この時、食と住についてはこれ以上出費しないように抑えます。衣については少なくともあと10を使う必要がありますし、最大で20使っても構いません。そうすれば、貯金は20~30の間に収まります。

■価値の制御のシンプルさ

この時のポイントは、衣の必要性を満たすことについて考える時に、基本的には他の食・住・貯金の金額を気にしなくて良いという事です。とにかく必要性を越えるまで衣のことを考えれば済みます。また、食や住の十分性を越えないように抑える時にも、衣や貯金の事を考える必要はありませんでした。

複数の価値のバランスを取る事を考えると、基準の異なるそれぞれの価値の比較という難しい問題が生じます。しかし、この例で見たように、必要性と十分性の間に制御することに集中すると、複数の価値の間の比較をする必要がありません。バランスを考えずに済むという事は、多面主義の運用の難しさを軽減します。かつ、多面主義に組み込んで重視していく価値の種類が多くなっても、それに伴う運用の複雑さが抑えられます。

なお、バランスを考えなければならないのは、全ての価値の必要性を満たす事ができないような状態にある時です。その場合は、複数の価値の間での優先順位を決めたり、バランスを取ったりという複雑な問題が発生します。

ただしその場合も、個々の価値毎に必要性を見直すという手が残っています。見直しの結果、全ての価値の必要性が満たせる状態になるかもしれません。見直してもまだ難しい場合には、バランスを取るという困難な作業が必要になります。

■社会における多面主義

ここまで、一人の個人における多面主義に基づく分析を行いました。この考え方は、基本的には個人の集まりである社会にも、ほぼ同じ形で適用することも可能です。

社会に適用する場合には、2つの観点から考える必要があります。

一つ目は社会全体の観点です。この場合、社会全体が1つの主体として主観的に、重視する複数の価値決めて、必要性と十分性を把握し、個々の価値をその範囲内に制御します。この枠組みと戦略は、個人であれ、社会全体であれ、何も変わりはありません。社会全体の場合は、意志決定の方法が複雑ですが、民主主義であれば選挙により、権威主義であれば権威が意志決定を行います。

二つ目の観点は、複数の個人の相互作用の観点です。この場合、個人ごとに重視する価値の組合せは異なりますし、その必要性と十分性も異なります。そして、個人の中だけでなく個人同士の間でも、価値のトレードオフは発生します。それでも、十分に多い量の資源や豊かさが社会にあるのであれば、全ての人の全ての価値の必要性を満たすことは不可能ではありません。

ただし、各個人が必要性を誤魔化さないことが重要です。複数の個人の相互作用における多面主義の弱点は、ここにあります。ズルをして必要性の基準を挙げる個人がいると、他の個人も追随して実際の必要性よりも多めに獲得しようとしてしまう場合があります。

それでも社会に十分な豊かさがあるのであれば良いのですが、そうではない場合、ズルをした個人が得をするという倫理的な問題が生じてしまいます。

これを防ぐ事は容易ではありません。このため、一般に主観的な必要性に委ねることは社会的には難しく、平等や公正という客観的に判断できる基準に頼ってしまいます。しかし、平等や公正は理想的ではありません。それは個人ごとに異なる価値の必要性と十分性とは無関係の基準だからです。

望ましい姿は自分に利益を誘導するために、必要性に余裕を持たせたり大幅にずらしたりするといったズルをする誘惑に、各個人が惑わされずに済むことです。仮にそれを実現する仕組みや手段があり、社会が十分な資源や豊かさをもっていれば、個人は自らの重視する個々の価値を正直に必要性と十分性の範囲内に制御することで、社会の中の全ての価値が必要性と十分性の中に納まる事になります。

■さいごに

個人が利益誘導のために必要性を偽るという事をどう乗り越えるかは難題です。その部分は結局、個人の社会的責任や良識に頼らざるを得ないのかもしれません。この点をクリアできさえすれば、個人内においても、個人間においても、組織全体や社会全体においても、必要性と十分性という共通の枠組みで多面主義を扱う事ができます。

ここで理解しておく必要があるのは、必要性と十分性の観点で制御を行えば上手く行くのは、必要性を満たすだけの資源や豊かさがある場合です。このため、社会に十分に資源や豊かさがあることが出発点です。不足が当たり前であった時代には、多面主義への共感は困難だったはずです。

農業技術や工業技術の進歩が私たちに物質的な豊かさをもたらしました。また、医療、情報通信技術、人工知能などの技術は、健康、コミュニケーション、知性といった非物質的な豊かさも増大させました。人によって捉え方は異なると思いますが、現代はこうした技術の進展により豊かさを享受できるようになりました。ここに、多面主義の可能性が広がってきていると考えています。

一方で、技術の進歩にもトレードオフは存在し、特に進歩の初期の頃よりも、現代やその先の未来の方が、技術の進歩によって失われるものの範囲や量が、広く大きくなります。特にバイオテクノロジや人工知能などは、不確実なリスクを増やしているという点で、失われるものの方が大きくなる可能性が高いはずです。これは技術が常に進化するという前提を見直す必要も出てくるということに他なりません。

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