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2022年05月25日 ソローの噺

ソローの『森の生活』って本がありまして。200年ぐらい前に、アメリカのどっかの湖のほとりで暮らした人の話で、自然系ライフのバイブル的な存在です。で、僕も昔は、良い話だなと思っていたんですけど。最近、いや、これは良くないなと思い直していて。何が良くないって、「1人」ってことですよ。

ま、しょうがないところもあるといえば、ある。200年前でも、現代ほどではなくてもストレスフルな都会生活ですわ。で、それに嫌気がさして、人間に必要なものは少ない、もっと自然の中で生きられる、といって、森の中での自給自足的な生活をする。それは、ストレスフルな都会生活に対するアンチテーゼとして、こんな生き方もあるよ、という、マシなやり方ではあると思いますが。でもその先に、本当の正解である、集団での生活というところに行かないといけないと思う。だって人間は社会的な動物なので。

ただ、それが辛いというのも十分、分かる。そもそも人間が嫌で引きこもっているわけですから。で、実際、それで生きられるわけですよ。200年前だって、そりゃ文明は現代とそう変わりませんから、インターネットは無いにしろ、服もあれば靴もある。鉄でできた工具だってある。商品経済があるから、そこに寄生しながら、というか、寄生というと言葉が悪いけど、頼りながら生きることはできる。ソロプレイできると思える。ま、現代では、それが部屋にこもりながらできるようになったので、引きこもっているわけですが。

ですから、ソローの『森の生活』は、現代文明を利用したライフハック(200年前の)と言えなくもない。一つの、よりマシな生活ですね。で、これをソロプレイでやるのは、多少は西洋的な文化がベースにあると思います。人間は神の創造物であり、基本的に「個人」という単位であるとか。人間性というものが内面に備わっているだろうとか。そういう文化ですよね。別にそれは真実である、というより、そういう文化である、というだけですが。だからソロプレイでの森の生活に結びつきやすいのだろうとも思います。

森の生活は、都会の生活へのアンチテーゼという意味で、大いに結構だとは思うし、憧れなくもないけど、でもそれは間違ったライフスタイルだなとも思う。繰り返すけど、1人だから。その先に、社会を作らないといけない。個人の人間は、それで完全なものではなく、部品に過ぎない、と僕は思っています。会社の部品、っていうのは悪い使い方だけど、集団の部品です。家族の中での役割があり、地域での役割がある、そしてさらに、人間集団は、その土地の中での役割がある。というように、世界の中でハマらないと。ハマった方が幸せになる。

宮大工の西岡常一さんの話で、法隆寺だとか、昔の建築に使われている木材は、全部、それぞれに癖があって違う、それをいかにうまく組み合わせるかが大工の技、という話があって。均一な材を組み合わせるよりも、強固になるそうです。知らんけど。で、人間もそうで、それぞれの癖を生かして組み合わせて社会を作る、それをいかにうまくするか、という話です。

そういう文脈で言えば、現代社会というのは、いかにツーバイ材のような真っ直ぐで癖のない労働者を生み出すか、という教育なわけです。真っ直ぐ、腐らず、強ければヨシ。でも、僕がやりたいのは、癖のある、現代社会では不要とされちゃう人間を組み合わせれば、法隆寺的な、丈夫な集団ができるんじゃないか、それを、自然の中で、どう溶け込ませられるか、ということなわけで、人間組み立てですね。人間を材料に社会を組み上げる。というか、もともと、人間は多様性があって不揃いなものなんです。ツーバイにはならない。

人間は、とか言っちゃうと、ちょっとスピ系になりますが、例えば真社会性のあるアリやハチは、人間よりは多様性が少ない、ツーバイ材的な人材(ハチ材)を生み出していると思います。そういう社会性、というだけのことです。だから、労働者を例えて「働きアリ」というのは、とても適切な例えで、遺伝子的な多様性が少ないから。でも人間集団は、多様性がある。親子や兄弟でも似ていない、性格が違うことも大いになる。多様性があるというのは「前提」であり、それを生かした集団を作る方が本当です。

現代の教育に対するアンチテーゼで、これまた、個性を伸ばした教育とかもありますが、ま、それはそれでいいんですけど、じゃあ、その先に、それをどう組み立てるのかというのは、意識されていない。個性を伸ばした教育、その先には、その材料を使ってどうにかする、という役割があるんですが、そこは資本主義社会の会社に任されているか、もしくはソロプレイで個人事業主でどうにか頑張れ、ということになってしまう。そこがポコンと抜けているんですよ。大工の役割が。製材所ばかりがあって、大工がいない。宮大工がいない。

宮大工がいないのに、個性的な材を生み出してもしょうがない。教育界というのは製材所だから、大工の要求に答えた材料を生み出すわけで、で、ツーバイ材を使いたいハウスメーカーの要求に応えて、言うことを聞く良い子を育てるわけですが。たまたま、スギのように「真っ直ぐ育った」子供、そういう遺伝子ですね、それを持った子供は社会で使い勝手が良いわけですが。で、不揃いな人間を生かした製材をするのはいいんですけど、じゃあ、誰がその材を今度は使うんや、と。そこが抜けているわけです。宮大工いない問題です。またあした。CIAO。

04/05/25 08:03 N.Kato:D

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