見出し画像

生まれた村から一生、外に出ない人生

昔の人って、生まれた村から一歩も出ずに死んでいった人も珍しくない、とか、まぁ本当かどうか知らないけど、言うじゃないですか。で、山に暮らしていて思うんですけど、そういうライフスタイル、余裕で出来るなと思って。ま、僕は個人的にはそういう性格では無いから、どこか行くと思うけど、ほとんどの人はできると思いますよ。

というのは、村から出ないと言っても、気候は変わるし、季節は過ぎるし、やることが結構、あるんですよ。田畑に限らず、動物を飼ったり、猟や漁をしたり、山菜やキノコを取ったり、家を修理したり、時には建てたり、ということをしていたら、めちゃめちゃやることがある。一生、村から出なくても全然、暇をしないだろうなと思います。むしろ、旅暮らしの方が単調な面もある。

というのは、何が「同じ」かと思うかで、単調かどうかは決まるんですが、そもそも論を言えば、全ては違うんですよ。同じ日は二度と来ないし、この瞬間と同じ瞬間は存在しない。単調な毎日なんていうものは、存在しないんです、というか、同じだと思うから、単調になるんです。違うと思えば、全て違うんです。てか、実際は違います。感度の問題です。で、感度も、ジャンルによって感度が違うわけです。季節の感度が高い人もいれば、モノに対する感度が高い人もいる。

自分語りをしますが、僕なんかは、土地に対する感度が高いと思います。道路とか比較的、覚える方だし、知らない土地に行くのも楽しいです。新しい土地に関する感度は高くても、同じ土地での変化には鈍感なのでしょう。春になり新しい草が生えていても、気がつかない。気がつかないから、同じだと思う、だから、同じ場所にいると単調に思える。でも、そこの感度が高い人であれば、毎年、田んぼをやっていると言っても、違うわけです。僕は鈍感だから(田んぼに関しては)、同じだなと思いますが、感度が高ければ違うんです。

例えばね、将棋指しとか、よく毎日やるなと、こちとら思うわけですが、それは僕の将棋に対する感度が低いからでしょう。将棋の感度が高ければ、同じ盤面は存在しないわけですから、毎回、楽しいのでしょう。野球選手も、よく毎日やるよね、たまにはバスケでもしたらとか、こちとら、野球に対する感度が低いから思うわけですよ。でも、毎回違うから、野球をしていて楽しいのでしょう。

ただ、人間に個性はあるといっても、全体の傾向というものも、あるものでして。それで言うと、都会は単調だと思います。だって、春でも秋でも、あんまりビルは変わらないでしょう。わぁ、春だから都庁ビルが輝いているね、とか、無いでしょう。同じなんですよ。というか、人間の感度では都会は、同じに見えがち。本当は都庁ビルも季節によって違うんでしょうけど、僕には分からないし、大半の人には分からない。で、自然は違います。だから、田舎の村に一生いても、別になんとも思わないし、それなりに忙しいわけです。

感度が高いところというのは、自分の得意であるとも言える。また、感度が低いからこそ、人より大きな視点で、鈍感に、大きな物事を進めることもできる。ってことで、自分がどんなジャンルに感度が高いか、また、鈍感なのかを考えてみるのも面白いと思う。はい。またあした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?