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2022年05月01日 コップの噺

苫米地英人さんの話が結構、好きで。あのキャラが面白いなと思っているんですが。言っていることの中に「未来から過去へ時間は流れる」という話があって。で、以前にも僕は「時間なんて、そもそも存在しない」っていう話もしましたが。時間ってのは、我々が感覚として生み出しているものですから。だから、過去から未来に流れるのも、未来から過去に流れるのも、自由。どっちを原因、どっちを結果、と思うか、というだけのことです。

以前の繰り返しだけど、時間ってのは「エントロピー」でしか表現できないのです。エントロピーとは「整然さ」です。もしくは雑さ。時間が経つほど、逆になる。コーヒーとミルクは、どんどん混ざっていくけど、分離することは無い。だから、コーヒーとミルクを混ぜる動画は、逆再生すれば、逆だなと分かる。でも、バスケットボールをドリブルしている動画は、逆にしても分からない。ま、バスケットボールが跳ねるのを、放っておいたら、だんだんと止まりますが。これは、運動エネルギーが、空気と地面の摩擦熱に変換されて失われるからです。

熱はエントロピーですから、結局、エントロピーなんですよ。熱摩擦が無ければ、ボールは延々に跳ね続けますから。天体が延々と周り続けるのは、宇宙空間で熱摩擦でエネルギーが失われないからです。で、ミルクとコーヒーが「混ざる」と「思って」いるのは、我々の感覚が雑だからです。本当は、ミルクとコーヒーが「混ざった後」も、状態は刻々と変化していて、同じ状態は二度と現れていないんですが、我々の感覚は雑だから、その違う状態を、同じだと認識してしまうんですね。だから、混ざったら戻らない、と思っている。

本当は、同じ状況は二度と起きないし、全てが特別な瞬間であり、また、特別な瞬間も存在しない。混ざったら戻らないんじゃなくて、そもそも、すべてが違う。コーヒーとミルクが混ざり切って冷え切ったと我々が「思った」後も、状況は刻々と変化しています。水分子は運動し、蒸発し、動き続けているんだけど、我々はそんな状態を認知できるほど感覚が鋭敏では無いから、もう「混ざったミルクコーヒーは戻らない」と思って、だから「時間」があると認識する。

で、話を戻すけど、未来から過去へと時間を流れさせるというのは、そもそも時間は概念なんですから、自由なんです。自己啓発ってのはそういうことで、因果関係を逆にする、ということです。とある目的を決めて、そのために行動する。これって、目的は未来でしょう。未来で過去(現在)が変わっているということ。ジョブズのコネクティングドットの話もそうですね。未来、または現在の行為によって、過去の行為に意味づけされる。ドットがコネクトされる。因果関係として、未来が過去を書き換えているわけです。

全ての感覚は、ただ単に、生物としての人間の感覚です。それが正しいということもない。時間もそうです。となると、客観的な事実は存在するのか。この世界に、人間の感覚の外に、厳然たる事物は存在するのか。っていう哲学マターの問題が出てくるんですが。僕は「あるけど知覚できないし表現できない」と思っています。あるかないかだったら、どうせ知覚できないんだから、無い、でいいんじゃないでしょうか。

例えばね、いま、机の上にコップがありますけど。この「コップがある」というのは、事実か。面倒くさい話ですけど、これも、捉え方次第ですよ。我々は人間だから、コップを理解できる、というか、本能的に理解しちゃう。でも、机とコップは違うものだと「思う」のは、我々の感覚。コップの表面にいる微生物やウイルス(必ずいます)にとって、コップは認識できない。コップにコーヒーのしぶ、みたいなのがついていますけど、ここにも生物が棲んでいる(絶対にいる)。こいつにとっても、コップなんて認識できない。

コップが机の上にある、と言えるのは、我々の感覚がコップと机を違うものだと認識するぐらいの生物的なサイズ感だから、です。また、周りの空気とも違うものだと認識するからです。ミクロのレベルで言えば、机とコップと空気の境目は混じり合っているものだから、そこに「コップがある」とは言えなくなる。アンドロメダ銀河から見たら、太陽系第三惑星の島国の机の上にコップがあるなんて、言えないんです。

ということは、何かが存在すると「言う」ことにおいて、言う、また表現するということは、その何か、例えばコップを、コップとして認識しなきゃいけない。それは、勝手に、理由なく認識しているんです。コップをコップであると区切る明確な理由は無い。ってことは、コップは多くの人間にとって当然、存在するけど、それが存在するというのは、ただの人間同士のコンセンサスに過ぎない。神様やお金と同じ類の幻想と言ってもいい。だったら存在しない、って言ってもいいんじゃね?って思うんですけど。

ね、面倒くさい話でしょう。ま、こういう面倒くさい話が好きなんで、好き勝手に書いていますけど。なんでこんな話を、しだしたかっていうと、図書館で『肩をすくめるアトラス』って小説を借りて。ま、前々から読まなきゃいけないな、とは思っていたんですけど。アメリカ人のバイブルですから。やっぱ、現代社会のルーツとなっている、この小説は読まなあかん、と思ったんですが。どうにもつまらなくて。挫折しまして。ウィキであらすじだけでも、さらっておくかと思ったんですね。

書き手はアインランドっていう女性で。ロシア生まれなんですけど。なんですかね、ロシア人って、ドストエフスキーとか、あの辺もだけど、いろいろと考えて主義主張のあることを言いますわな。偏見ですけど。で、肩をすくめるアトラスに代表されるアインランドの哲学、というか、主義主張というのは、今の新自由主義に繋がっていると思うんですけど。その根本に、アリストテレス的な、事物は事物として存在していて、それを理性によって分類していって、世界を理解する。人間は理性的な存在である、というね。考えがあるんです。

で、それが違うだろうと僕は思っているわけでして。僕は、人間は自分のサイズ感でしか世界を把握できないし、感覚なんて雑なものだし。その上で「理性」があると思ってやっていますが、ま、そんなことも無い。そもそも世界を雑にしか見ていないんですから、その、雑な感覚を土台とした論理とか理性に、そんなに意味が無いだろうと思っているんですよ。で、激おこぷんぷん丸ほどではないけど、アインランドのウィキを読んで、こりゃ間違っているな、おこ、ぐらいではあったので、こんな話を言ってみたんですけど。

じゃあどうしたらいいかっていうと、僕は、人間の感覚は、もう雑だし、変だし、あるのはしょうがないんだから、せいぜいそれを満たすところで満足するべき、っていう考えです。一方で、世界が繋がって、地球という枠組みも見えてしまった以上、そのサイズ感の運営の必要もある。それは、エリート教育でいいんじゃないですか。しょうがないですよ。誰かがやらなきゃしょうがないんだから、それ専用のエリートを育てるしか無い。損な役回りですから、みんなが可哀想なエリートを支えてあげればいい。ま、そういう考えです。

それはそれとして、図書館でこれまた借りてきた「マンガ・わかりやすい資本論」みたいな話も読んでいるんですけど。パラパラっと見ていた中で「共同体外部との接触において商品が発生する」っていう言葉があって、刺さりましたね。いいこと言うじゃんこのヒゲダルマ、と思いましたけど。逆に言えば、共同体内部では商品は発生しない、というか、商品を発生させると共同体が崩壊する。僕も、集落づくりで「集落内でのお金のやり取りは無くさなきゃいけない」と思っていたんですけど、同じことです。

今更ながらだけど、資本論は面白いです。ただ、労働者よ団結して政府を倒して労働者政権を作れ、なんてことは僕は思わないし。それより、労働をやめよう、っていうニート万歳派ですね。科学技術の恩恵を享受しながら、みんな、この人間の雑な感覚を満足させるように生きればいいじゃない。という考えです。サイズ感が違うんです。人間の適度なサイズから広げるのは、無理。そのためには、人間の感覚によらない、エリート教育が必要になる。そう思うんですけどね。はい、5月ですね。みなさんいかがお過ごしですか。またあした。CIAO。

04/05/01 08:06 N.Kato:D

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