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1982年という世代

 秋葉原通り魔事件の加藤智大、この場合は「さん」づけは一般的にどうかと思うし、被告というのも違いますよね、死刑囚、でいいんですかね。加藤死刑囚の死刑が執行されたと、ニュースを読みまして。思うところを、つらつらと書いてみます。

 加藤死刑囚は歳は1982年生まれ、僕より3つ下ですが、ほぼ同世代。ついでに苗字も同じ。加藤だから特に珍しくもありませんが。で、この82年生まれ世代って、たしか酒鬼薔薇聖斗、この場合もどう敬称というか、末尾に単語をつけたら良いか分かりませんが、彼も同い年だったはず。当時、キレる17歳となった世代。ネオ麦茶さん、もうさん付けでいいや、も同じだったはず。たしか。なんか、いろいろと悪い意味での有名人がいる世代なんですよ。

 また韓国で数年前に流行った小説で、『82年生まれ、キムジヨン』ってのがありました。原作は読んでいないんですが、映画は見まして、ひどくはなかったけど面白くもなかったです。お隣でもなかなか、82年というのが節目の年なのかな、と。ただの偶然かもしれませんが、世代の空気というか。あると思うんです。

 82年生まれの人は、6歳か7歳ぐらいの時に昭和から平成になっています。ほぼ「平成世代」なんですね。昭和の記憶が、そんなに無い。僕(79年生)だと、昭和から平成になった、という記憶があるんですよ。小学校3年生の時だったかな。小渕さんが「平成」を掲げていたのを、テレビで見た覚えがあります。そして、昭和天皇が亡くなって、スーパーが軒並み閉まって、商店街に人通りが無くなったことも覚えています。

 昭和から平成になったことで、地震が起こるわけでもないし、自然は全く変わらないのですが、人間の気持ちが変わります。そして人間社会というのは、ほぼ、人間の気持ちで作られています。本当の「平成世代」というのは、82年生まれからなのかもしれない。小学校1年生として社会に組み込まれる、まさにその時に、時代が変わった世代です。平成と共に生まれ育った世代です。

 そして、その後の「失われた30年」です。時代の空気も下降線。個性を重視する教育。さらに、82年生まれの親の世代といえば、団塊の世代よりも後、新人類(60年代)よりも前。ググったら、しらけ世代、という言葉もあるそうです。学生運動が下火になり、無気力になった世代と言われているようで。

 団塊の世代というのは、良くも悪くもパワフル。一応、大前提を言っておきますが、そうじゃない個人なんて山ほどいます。でも、世代の空気というものは、確実にあると思う。で、団塊の世代はパワフルだった。戦後の盛り上がり、成り上がり、そのエネルギー。僕の親は二人とも昭和23年なので、団塊バリバリですが、やっぱりパワフル感はありますね。

 その下の、しらけた無気力な世代であり、その子供の82年生まれ。彼らは平成と共に育ち、物価が上昇することも、景気が良いことも経験することなく、一方で地域や家族が崩壊していき、孤独になっていった世代です。その孤独を、焼け石に水かもしれないけど、マシにさせるインターネットツールも、彼らが成長する時代には、あまり無かった。昭和の成長と、インターネット以降の、エアポケットのようなはざまにストンと落ち込んだような世代とも感じる。そして、偶然かもしれないけど、秋葉原も麦茶も酒鬼薔薇聖斗もそこに当てはまるという。

 問題は、孤独です。それは、共同体が無くなったということです。群れの動物である人間を、1人1人を檻に入れて孤独に育てたら、おかしくなるんです。戦争も、戦後の全共闘も、そしてインターネットも、生み出しているのは「人間と人間との繋がり」です。繋がりが無いと、人間はどうなるのか。こうなる、ってことです。酒鬼薔薇聖斗の家が新興住宅地だったのは、なんか、出来すぎたような話ですが。地域共同体が無くなった、檻のような新興住宅地で生まれ育ったというのは、分かるものがあります。

 じゃあどうしよう、ってんで、政府が孤独対策なんてやり出して、相談窓口とか、カウンセラーを倍増させるとか、しているみたいですが。そういうのを聞くと、あまりのアホらしさに口の端が歪みますが。もっと単純に、集まって話す場所を作れば良い。人間はそういう生き物です。そういう意味では、創価学会とかの方がよっぽど孤独対策に寄与していると思いますよ。ま、あれも政府の一部ですが。宗教という共同体を作ることで、多少は、孤独な人間を救っていると思う。社会の平和に寄与していると思う。マジで。

 しかし現在は、そこに追い討ちのようなコロナでしょう。人の集まりが阻害される。そりゃ自殺も増えます。人間ってのは面白いもので、1人でいる時は、自分なんて無個性で、何もないと思っていても、群れると、役割が発生するんですよ。個性があるから。ただ、その時のコツは、似たものを集めないこと。年齢も性別も可能な限りバラバラの方が良い。現代の教育は、これと真逆のことをやっています。似たものを集めて、似たようにさせようとしているんですよ。人間の育て方として最悪です。

 似たもの同士で集めさせられて、その中の、社会的価値観と合わない「似たものたち」は負け組としてまとめられ、孤独になっていく。そりゃ、人間として、おかしくなってしまいます。僕は当然、加藤智大死刑囚も酒鬼薔薇聖斗も個人的には知らないけれども、社会の責任というのは、確実にあると思っています。僕は根本的には死刑反対なんですが、それはなぜかというと、「社会の責任」があると思っているからです。教育制度や、共同体を崩壊させたことや、人を孤独にしたこと。そういう責任が少なからずあると思っている。

 少なからずあるのだから、とある特定の個人に「全責任」を取らせる死刑には反対、という考えです。死刑というのは、ある意味、水に流すことなんですよ。無かったことにする。そいつが悪くて、社会は悪く無かった、という考えが根本にあります。そうすると、社会は変わらない。社会を良くするためには、死刑は無い方が良いと思っています。ともかく、ご冥福をお祈りします。またあした。

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