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2021年10月13日

まぐまぐから発行しているメールマガジン『和噺』の過去ログです

自我は拡大可能で、また、いろいろな対象物を含むことができる。で、自我を拡大すると、自我の中の、自分の肉体の占める割合が下がってくるから、死(肉体の消滅)の恐怖が薄らいでいく。って話をします。

まず、おさらいからですが。毎度の話ですが。感覚によるインプットと、行動によるアウトプット、これをつなぐプログラムが「意識」であり、その意識が作り上げた「自分」という存在、つまり、特定のプログラムですね、それが「自我」です。「私は、加藤家の跡取りだから、医者にならなきゃいけない」みたいな話。幼少期から青年期で「自我」が形成され、その自我によって、我々は世界の中で行動をしていく、という仕組みです。

いきなり余談ですが、自我は一度形成されてしまうと、変わりにくいものです。それは、我々のDNAが「世界は変わらないもの(少なくとも、人生数十年ぐらいのスパンでは)」という前提があるから、です。ただ、生まれ落ちた世界がどのような世界かはわからないから(そこは熱帯かもしれないし、亜寒帯かもしれない)、幼少期の自我は可変なのです。で、自我が固まった青年期以降に、自我を作り直すのは、難しいのです。だから、子供はどんな言語もすぐに覚えるけれども、大人になってネイティブ並みに外国語を話すのは、とても難しい。

で、現代社会は「環境が変わる」世界ですから。僕も子供の頃は、インターネットも無い、スマホも無い社会ですから。本来なら、世界が変わらないであろう、数十年ぐらいの短いスパンで、ガンガン、世界が変わっているから、それに合わせて自我を組み直さないといけないのです。それが非常にストレスだし、多くの人は出来ないから、大変なんですね。環境の変化スピードが、人間に合っていないんですよ。

話を戻して、そういう自我が人間にはあるわけですが、この自我の対象というのが、これまた、いろいろな範囲で自由に取り得るのです。当然「自分の肉体」を含んでいないと、生き延びる確率が少なくなりますから、多くの文化(集団で共通する自我体系)は、「個々の肉体を自我に含む」のです。当たり前と言えば当たり前です。自分の肉体と、あまりに乖離した自我形成、例えば「僕は鳥だ、自由にお空を飛べるんだ」みたいな、肉体と乖離した自我を形成しちゃうと、ビルから飛び降りて死ぬんですね。そういう自我は、存続できない。

自我は自由に形成できますから、自分の肉体を含んでいようが、含んでいなかろうか、それも自由。また、範囲も自由。普通は「家族」ぐらいに自我を拡大しています。だから、自分の親とか、子供とかが死ぬと、悲しいわけです。それは、自分の自我の一部ですから。自分の子供に、自分の肉体以上の思い込み(自我の没入、とでも言いますか)をしていると、子供が死んだら、自分が死ぬより悲しい。変な言い回しですけどね。自分が死んだら、死んでいるんだから、悲しくないんですけど。気持ち的には、そのぐらい、ってことです。

最近では、ペットに自我を反映させる人も多いです。そもそも人間って、社会的動物ですから、自我を拡大するように出来ているんですよ。あまり、自己中心的な人って、いないんです。そういう人は「サイコパス」とか言われちゃうんですけど。サイコパスは、自我の範囲の問題です。自我の範囲が狭い人のことを、サイコパスって呼んでいるんだと思います。じゃあ、大多数はどのぐらいの範囲かというと、おそらく、それが毎度言う「伝統的な集落の人数」であり、100人ぐらいじゃなかろうか、と思います。

もちろん、その100人にもグラデーションがあるわけです。中心には、すごく親しい人、配偶者とか親とか子供とか、家族ですよね。その外側に、親友とか、親戚とかがいる。その外側に、集落の仲間がいる。自分を中心とした、100人ぐらいの人間集団の全体に自我を反映させるというのが、おそらく、ベーシックな形だろうと思います。もちろん、これは、人類の歴史上、また、人類の特性から考えれば、それが普通というだけであり、それ以外をとり得ない、ってことじゃありませんよ。

ペットでも、もしくは、神様やお金のような概念でも、また、車や服のような物品でも、自我に含むことが出来ます。車を愛し、何よりも大切にしている人にとっては、その車は自我の一部ですから、もし、車が事故って傷ついたりしたら、そりゃめちゃめちゃ悲しいわけですよ。また、お金に自我を反映させていたら、自己破産でもしちゃってお金を失ったら、死ぬより苦しい、みたいなことになるわけです。また、家畜に自我を反映させると、生き物を食べるのがかわいそうという、ビーガンになったりします。

さて、意識は「同じ」という機能があります。永遠に生きたいんですよ。今日も明日も、1億年後も、できることなら存在したい。これは、本能を失った人間が世界を理解するときに「同じ」というカテゴリー分けで世界を理解するしかなくなったんだけど、その副作用で、自我は永遠に続く、と思いたいんですね。で、残念ながら矛盾するのは、肉体は永遠に存在できないんです。永遠に生きたい自我と、永遠に生きられない肉体。そのギャップを、どうにか埋めたいんですよ。

エジプトがミイラを作っていたのは、肉体を永遠に存続させて、永遠の自我(魂)の受け皿になる、という解決法です。まぁ、一つの誤魔化し方です。現代でも、遺体を冷凍保存して、未来で治療しようというベンチャー企業とかありますが、それも根本的には、「永遠に生きたい自我と、永遠に生きられない肉体のギャップ」を埋める作業です。

自我と肉体がニアリーイコール(ほとんど一緒)という文化だと、こういう解決策しか無いのです。エジプトのファラオと、現代人は、そういう意味で自我が似ているんでしょうね。一方で、自我を肉体から乖離させて、永遠に生きる存在に近づけちゃう、という解決策もあります。キリスト教やイスラム教の解決策です。魂は永遠に生きて、最期の審判を待つとか。ミルクの流れる川がある天国に行けるとか。そういう魂がある、という物語を自我に含めちゃえば、死ぬのは怖くないですよね。これまた一つの解決策です。

昔の日本だと「家」を自我に含めますから、家の存続のために、自分が腹を切るというのも、できるわけです。自分の肉体は無くなるけれども、家は存続する。この人の自我は、自分の肉体も含んでいるでしょうが、それ以上に、「家」を多く含んでいるんでしょうね。だから、肉体よりも家の方が大切であり、腹を切れるわけです。戦争の時も、「国」に自我を没入させた人もいたでしょうし。まぁ、こんな感じで、自我はいろいろな形態を取り得るし、どうにかして永遠に存続したい、と思っているわけです。

さて。誰でも死ぬのは怖いと思うんですが、これは「自我が消える」のが怖いんです。もし、死んだら魂が極楽に行けるって、心の底から信じられたら、死ぬのなんて怖く無いでしょう。むしろウキウキですよ。また、SF的に、死ぬ前に脳から意識をコピーして、新たなクローン肉体に入れて、生きられるとかいう技術があったら、別に怖くないでしょう。我々が怖いのは、死そのものではなくて、自我の消滅が怖いのです。だから、宗教を信じて、「永遠の自我」とか、また、家とか国という、自己の肉体より永続しそうなものに、自我を没入させるのです。

そういう前提の上で、現代日本人は、どのような方法だったら、より良く生きられるのだろうか、という話。我々は今さら、ミイラになって永遠の命を持つとか、極楽浄土を信じるとか、お家存続のためにとか、そういう幻想は信じられないですから。何か、新たな対処法を見つけなければいけません。見つけないと、死ぬのが怖くて不幸になりますから。で、原点に戻ると、最も普通なのは「共同体」なんですよ。100人ぐらいの集団。これに自我を投入させるというのは、人間のDNA的に、最も無理がない方法だと思います。

そりゃ、生まれ落ちたところが、そういう集団だったら、最もハッピーなんでしょうけれども。無意識に没入できますから。楽です。しかし、我々はすでに、バラバラの「個人」になっており、その作業を意識的にやらないといけません。現在は、自己の肉体とほぼイコールである自我を、どんどん拡大していく。平たく言えば、親しい人を作り、人の世話をし、人のために生きる、ってことです。自分と同じ程度に大切な人を、増やしていく、っていことです。そうすると「自分」の価値が薄まりますから、不安が無くなる。結果、幸せになるんですよ。

この考え方は、現代社会の「自立した個人」とは、逆の考え方です。自立した個人というのは、誰にも頼らず、強く、自分の能力を発揮して、やりたいことやって生きていく、という価値観だと思いますが。僕は、そういう「自立した個人」の文化が、あまり好きじゃないんです。それは結局のところ、死の不安から逃れられないんじゃないか、と思うので。根本的に、人間を幸せにしないだろうな、と思うのです。

これに関して、堀江貴文さんの考え方が面白くて、あの方の解決策は「忙しく、毎日を楽しく過ごしていれば、死の不安から逃れられる」というものなんですが。でもいつか、死には追いつかれるので、逃げてはいるけど、絶対に逃げられないんですよね。肉体は永続しないので。自立した個人というのは、死が間近に来た時に、不幸になってしまうんじゃ無いかと思うのです。

僕は「自我を拡大していき、自己の存在を薄めていく」方が、人間はハッピーになれるんじゃないか、と思っているんです。共同体の考え方です。そこには「自立した個人」は無くって、お互い、頼りあって、支え合って、生きていく人間集団があるんです。で、この人間集団も、永遠に続くことも無いと思うんだけど、自己の肉体よりは、永続しますから。まだ、マシなんじゃなかろうか、と思うのです。

さて、もっと自我を拡大させると、「全人類」とか「地球生命」みたいな方向に、いくわけですが。これは、100人の共同体よりも、もっと永続性が高い。また、神様やお金といった概念よりも、実体がありますから、リアルに感じやすい。つまり、信じやすい。しかし、これも「意識的」にやらないと、難しい。人間のDNAで自然にできる、つまり、楽にできるのは100人ぐらいの集団までであって、全人類に自我を拡大させるっていうのは、ガンジーレベルの話ですから。できりゃいいんですけど、難しいですわね。

最後にもう一つ、余談を入れるけれども。政治がいつもうまく行かないのは、政治ってのは、全国民、数千万人とか数億人に自我を拡大させなきゃいけないから、です。でも、これは難しいんですね。普通、親しい100人ぐらいを贔屓したくなりますから。贔屓であり、別の表現で言えば、愛情なんですけれども。なので逆説的に言えば、全員を愛することは、誰も愛さない、ってことでもあるんです。そういうことをやるのが政治なので、難しいんですよね。はい。またあした。CIAO。

03/10/13 09:23 N.Kato :D

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