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2022年03月21日

最近の流行りの思想、とひとくくりにしてしまうのも乱暴な話ですが、特徴的な流れだなと思っているのが、好きな人(とかレベルの合う人)と付き合えとか、友達を厳選しろとか、人間関係の断捨離、という話があるじゃないですか。ま、なんでこういう流れになったかというと、毎度ですが、「技術により環境が変化し、最適解(行動)が変わる」ということでして。この場合、行動の目標というのは、幸せとか、その手段(人によってはそれが目的)としてのお金とか、です。

インターネット、そして、スマホとSNSってのはかなり大きな技術変化で、これによって、新たな人間関係を簡単に構築できるようになって、趣味の合う人、また、レベルの合う人と付き合えるようになった。出会えるようになった。だったら、人間関係も(時には家族関係も)、軽々と変えて行った方が良いよね、それが「成長」だよね、という話。さて、こういう流れに対して思うのは、果たして、それは変わっているのか。むしろ、変わっていないんじゃないか。ということです。

生物の大原則として「楽をしたい」というのがあります。そして、変化というのは、大変です。大変って言葉も「大きく変わる」ですからね。変わることは、しんどいんです。で、成長のために人間関係を乗り換えていく人は、果たして「変わっているのか」という問題です。その人たちの主観的には、もちろん、変わっているでしょう。みんなが、いつまでも同じ仲間とたむろしているうちに、自分はどんどんレベルが上がっているんだと、思っている、と思います。

でも一方で「気の合う人」と付き合うということは、自分は変わっていない、ということです。もちろん、中学時代からの地元のツレみたいな、変わらない関係もありますよ。しかし人付き合いって、多かれ少なかれ、変化を伴います。なぜなら人間は違うからです。そして、人間は年もとるし、変わるんです。人間(身体)は「自然」ですから。んとね、自然は変化して、人工は変化しないんですよ。田舎は変化し、都市は変化しない、といっても良い。身体と脳(幻想)とも言える。そして、田舎の人間関係が濃密だとかいうのも、変化の一端です。

ちょっと、細かく説明しないで、ぶっ飛ばして書いているので、分かりにくいと思いますけど。この辺は毎度の話ですので、ぶっ飛ばしていきます。さて、特定の人との関係を続けることは、僕は「変化すること」だと思っています。一番が、育児ですよ。めちゃめちゃ変わりますから。その変わる相手に付き合っていれば、自分も変わる。それを「親になる」と言うわけです。親という立場は、人間関係です。相手がいない限り、親にはなれない。子供を産んだから親になるわけではなく、人間関係と、相手の変化で、親という人格になる。

人格、というと偉そうですが、行動様式です。親モードというアプリがインストールされる、という感じ。介護も、そう。自分が、親の面倒を見る。そういう立場になる。それは、変化です。自分が変わるんですよ。というか、新しい行動様式が加わるということです。それを昔ながらの言い方をすれば、人間に深みが出るとか、幅が広がる、ということでしょう。経験を積んで心が広くなった、とか。ま、いろいろな経験により、人間関係の立場が広がって、複数の行動様式をインストールすることができた、ということです。
(別にそれを良いとかいうわけじゃなく、単に、そういうことだ、って話です)

さて、そういう文脈で考えると、「成長」と思って人間関係を乗り換えていく人が、家庭や育児を面倒くさがるのも、当然です。だって、育児は変わることを強制してきますから。大変です。それよりは、犬猫の方が良いじゃないですか。あれらは、変わりませんから。ま、「死ぬ」という変化はあるんですけど。ペットは、変わらない自分を保持してくれる消費財として扱われるわけです。ま、死なないaiboもありますけど。でも人間の子供は、普通は、そういうわけにいかないので、変化を強制させられる。

となると、現代社会が非婚や少子化になっていく原因は、そもそも、変わることが嫌だから、という話なんじゃなかろうか。逆に、なぜ今まで結婚と出産を通じて人類が存続してきたかというと、年齢に応じた、強制的な変化があったのでしょう。いや、これは男性と女性で違うか。女性の場合は、出産と育児に対して影響がでかいので、身体的な変化圧がかかるでしょうね。男性の方は、文化的な変化を後押ししないと、難しいと思う。だから、元服とか、バンジージャンプの成人の儀式とかが、男性には必要なのでしょう。

そもそも、放っておいて「大人」になるとかいうわけじゃないんです。特に男性は。子供とか大人というのも、年とともに自然になるものではなくて、文化的な枠組みです。なので、それを無くしていったら、変化しないのは当たり前。結婚もしたくないし、子供も持ちたくない。ま、こういうのも0か100かじゃなくて、グラデーションで、移行期ですから、去年と今年で何が変わっていることも無いんですけど、50年前とは変わっている。より、変化しないで良い環境になっている。それは、変化を強制していた文化が消えたからです。

で、最初に戻るけど、文化が消えた、というか「消せた」のは、技術革新による環境変化です。高度経済成長期に、皆がマイカーを持ち、新幹線のような交通網が日本中に発達した。ということで、生まれ育った田舎で、一生を終える必要がなくなる。都会に出られる。また、テレビや雑誌により形成された「人格」は、都会向きですから、変化しないために(変化するために、では無い)都会に行くことができる。

そのハード面での環境整備に続き、インターネット、スマホ、SNSという技術変化・環境変化が起きてきた。すると今度は、都会に出ないでも、変化しないでいられる。昔は、変化しないためには「都会に出る」必要があったのが、自分の部屋で、変化しないでいられるようになった。なので、引きこもりになる。欲望というのは、これは「脳の欲望」であり、脳は「同じ」という機能により、変化を嫌う。だから、水槽に浮かぶ脳は、変わらない幻想の中で、プカプカ浮かぶことを夢見る。

しかし、その世界観が問題なのは、僕は「水槽の脳」が実現するとは思っていないのです。脳は脳として切り取れるものじゃなくて、全身の神経系の一部にしか過ぎず、神経系は肉体の一部にしか過ぎず、そして人間は集団の動物なので、個人ですら集団の一部でしかない、というのが「人間の特徴」だと思っているのです。そして、身体とか他者は変化する。だから、結局、水槽の脳や、その前段階での引きこもり生活では、幸せになれないだろうと思っているんです。ある程度、強制的な変化があった方が幸せになるんですよ。またあした。CIAO。

04/03/21 09:10 N.Kato:D

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