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乾坤山日本寺 探訪記

千葉県南部の鋸山に有名なお寺があるというのは、風の噂でなんとなく耳に入っていました。どうやら大仏さまがおわすだとか、高所恐怖症泣かせの展望台があるだとか。ただ、千葉県は海の向こうにあるためさほどご縁に恵まれず、これまで行く機会知る機会がありませんでした。そんなある日、かかる噂を、何かのきっかけで私の妻も聞きつけたらしく、次の休みの日にここへ行きたいと懇願してきたのです(※私の妻はベトナム人であり、神仏への信仰心が格別に厚い)。信心深いカミさんが行きたいと言うのなら、行かない手はありません。かくして2022年11月28日(月)、房州鋸山山中に鎮座する乾坤山日本寺へ探訪することになりました。

■其の所在は安房鋸山の山中

さて、まずは乾坤山日本寺の所在について明らかにしておきましょう。Google Mapで“日本寺”と検索。そこに表示される住所は「千葉県安房郡鋸南町元名184」です。現在の安房あわ鋸南町きょなんまち1町村のみで構成されているため、もはや安房郡が何のために存在しているのかよく分からない状態ですが、明治〜昭和中期においては、現在の鋸南町・鴨川市・南房総市・館山市を包括する範囲が安房郡に定められており、中間階層の行政組織として機能していました。これらの範囲は房総半島の南部エリアに相当しており、チーバくんで言うところの脚にあたります。そして肝心の鋸南町は、内房と呼ばれる東京湾沿岸側の一角、館山市や南房総市の北、鴨川市の西、さらには富津岬の南に位置しており、ちょうどチーバくんの腿か膝のあたりと言えばおおよそ間違いはないでしょう。あれ、チーバくんに富津岬が無いぞ⁈

この鋸南町、私の住む神奈川県横浜市からは、首都高速湾岸線で川崎市へ出た後、東京湾アクアラインで海を渡って千葉県木更津市へ上陸し、あとは国道16号線127号線を使ってひたすら南を目指すことによりアクセスすることができます。その道のりおよそ2時間。近いです。ちなみに千葉県上陸後もそのまま高速道路を使えばもっと時間短縮できるのですが、せっかくの房総路ですから、下道を使って町や地形を観察しながら移動したほうが楽しいです。

鋸南きょなん。なかなか洒落ているじゃないですか。なんでこんな名前なのかと言うと、その答えはいたって単純明快。読んで字の如く、「のこぎり」の南にあるからです。では、その鋸とは何か。それを明確にするために、いったん千葉県から離れましょう。

これは、神奈川県横須賀市東浦賀2丁目にある浦賀城跡から房総半島方面を見た景色なんですが、この画像の中央に横たわる長嶺が、まさにその「鋸」にあたるんです。その名も「鋸山のこぎりやま」。嶺上に細かな凹凸が繰り返されていて、鋸の歯さながらですよね。江戸時代から採石が盛んに行われ、岩盤が露呈していき、このような形になったと言われています。

この鋸山を地図上で見てみると、この嶺は東西に伸びていることが分かります。さらにその嶺は高低を繰り返しながら外房まで続いており、ちょうど房総半島を南北に分ける地理的境界線を形成しているようです。この嶺より南側は、かつて安房国あわのくにと呼ばれていました。鋸山はそんな場所に存在し、鋸南町はそんな鋸山の南に存在しているのです。そして件の日本寺は、この鋸山の山中にあります。

■神亀2年、行基により開山

さて、そんな鋸山山中にある乾坤山日本寺は、いつ、誰の手によって開かれたのでしょうか。

日本寺の公式サイトによれば、その開山は神亀じんき2年。西暦に直すと、神亀2年は725年にあたります。はて、725年は何時代でしょうか。「なんと(710)立派な平城京」「鳴くよ(794)ウグイス平安京」。つまりは平城京を中心に世の中が動いていた時代、すなわち奈良時代です。仏教公伝からおよそ200年、十七条の憲法により仏法僧の崇敬が義務化されてからおよそ100年が経過した時代です。仏教は、国家鎮護の基本思想として朝廷の管理下に置かれ、基本的に僧侶は公務員に近く、寺院の建立は公共事業として行われていたようです。

そんな時代背景の下、この乾坤山日本寺は、時の天皇である聖武天皇の勅詔、つまり公的命令を受け、行基というお坊さんの手によって開山されました。この行基は、後の一大公共事業である東大寺大仏造立を主導したことで広く世に知られた人物でもあります。

ではなぜ、首都から遠く離れた安房国において、いきなり公的命令で寺院が造られたのでしょうか。実は当時、この日本寺だけにとどまらず、数々の寺院が各地方諸国において天皇の勅詔と行基の手により開山されています。例えば東国だけ見てみても、
 海上山千葉寺せんようじ(下総国/709年)
 医王山神武寺じんむじ(相模国/724年)
 大蔵山杉本寺すぎもとでら(相模国/734年)
 瑞應山弘明寺ぐみょうじ(武蔵国/737年)
 高尾山薬王院(武蔵国/744年)
などなど、調べれば次々と出てきます(これは氷山の一角)。あの寺もこの寺もそうだったのか、というものばかりです。厳密のところ、「行基が開いた」ということが記録に残されているのかというとそういうわけでもないらしく、いわゆる伝承として語り継がれてきたという印象が強いものばかりですが、少なくとも言えるのは、奈良時代前期、首都から遠く離れた東国においても数々の寺院が建立され、日本寺もそうした流れの一貫として造られた、ということです。

■御本尊は医薬の仏様

日本寺の御本尊は、主に医薬のご利益があるとされる薬師瑠璃光如来です。よく「薬師如来」という名称を聞きますが、要はこの薬師瑠璃光如来のことを指しており、略した言い方なのだそうです。左手に薬壺やっこを持っており、人々の病気をなおし、延命し、さらに精神的な苦痛も取り除いてくれる仏様です。

この薬師瑠璃光如来は、かの「阿弥陀如来」と非常に対照的です。阿弥陀如来が「西方極楽浄土」の教主であり、死んだ後の人に安らぎを与えるのに対して、薬師瑠璃光如来は「東方瑠璃光浄土」の教主であり、現世で生きている人に安らぎを与えるのです。死後に極楽浄土へ行けると信じて、苦しくてもそれに耐えて生を全うするか、生きている今を何とかしなければ意味がないと思うか。どっちが良いとか悪いとかではなく、そこはもうその人の考え方次第です。それによってどちらの仏様のご利益を賜るかが決まるわけです。

さて、日本寺の御本尊である薬師瑠璃光如来は、境内の何処に安置されているのでしょうか。それがこちらの建物です。

その名も薬師本殿。質素な建物ではありますが、宗教的には、これが日本寺の一番の中心的施設となります。これまで、日本寺の薬師本殿は幾度となく災禍に見舞われ、何度も再建を繰り返してきました。現在のものは、昭和14年の大火によって先代の殿舎が消失した後、平成19年に建てられたものだそうです。...。新しいんですね。ああそうなんだ。んまあ、現実とはそんなもんですよ。

そして日本寺には、薬師瑠璃光如来がもう一体おられます。それがこちら。

なんと大仏様です。この大仏様も左手に薬壺を持っており、薬師瑠璃光如来だということが一目で分かります。我が国で大仏と言えば、真っ先に思い浮かべるのが奈良の大仏鎌倉の大仏の二体ですが、これらは高温で溶かした銅を鋳型に流し込む「鋳造」という方法で造られた「青銅大仏」であり、一般的な造立手法です。それに対して日本寺の大仏は、岩壁を「彫刻」して造られた「磨崖仏」であり、大岩壁が露呈するような場所でしか造ることができません。まさに鋸山ならではの大仏様であると言えます。

日本寺大仏が最初に造られたのは、天明てんめい3年。天明?...あ、奈良時代か...と思いきや、奈良時代の元号で「天なんとか」と言えば天平てんぴょうです。天明ではありません。さて天明とはいつぞや。天明と言えば、天明の大飢饉。天明の大飢饉と言えば、松平定信寛政の改革です。出ました松平。というわけで天明3年は江戸時代。西暦だと1783年です。江戸中期ですね。上総国に住む大野甚五郎という石工が弟子たちと共に完成させたそうです。

しかしこの大仏様、元はと言えばただの岩。風雨に晒されれば簡単に風化侵食が生じ、形を変えてしまいます。そこが青銅と大きく違うところ。困ったものです。大仏様は崩壊しかけたまま放置されてしまいました。しかしさすがに、人々を救う存在であるはずの薬師瑠璃光如来が見るも無惨なお姿になられるというのは良くありません。天地がひっくり返ってしまいます。そこで昭和40年、大仏復興計画が始動します。石彫家である八柳恭次氏の指導のもとで復興工事が行われ、昭和44年(1969年)に完成。いま我々が目にしている日本寺大仏は、このような過程を経たお姿なのです。

■全て巡るなら軽登山を覚悟すべし

ここまで、乾坤山日本寺の歴史的概要を見てきました。ここからは観光編です。

薬師本殿で御本尊の薬師瑠璃光如来を拝み、そして大仏様を拝めば、最低限の日本寺参拝は成立するのですが、日本寺境内にはこのほかにも様々な魅力が詰まっていて、それだけで帰るのは勿体なさ過ぎる場所です。日本寺の公式サイトでは、日本寺の境内を以下の5つのエリアに分けており、それぞれに見所があります。
①表参道エリア
②中腹エリア
③大仏広場
④羅漢エリア
⑤山頂エリア
それでは具体的に見ていきましょう。

①表参道エリア

日本寺の表参道は山麓の保田の集落から発しているのですが、車で訪れる場合、駐車場はこれよりも上にあり、省略されてしまうため、ガチ歩きで参拝しに行く人しか通ることのできないエリアです。しかし、ここには寺院参拝をするうえで超重要な施設があり、見過ごすわけにはいきません。それは、日本寺の正式な入口である仁王門です。「乾坤山」の扁額が掲げられ、建物の構えもなかなか立派です。これはピストンしてでも見ておく価値があるでしょう。

②中腹エリア

このエリアは薬師本殿のあるエリアであり、それが一番の見所であることは言うまでもありません。しかし、見所はそれだけじゃないんです。これですこれ。蘇鉄です。この蘇鉄、なんと源頼朝公石橋山の戦いに敗れて安房に逃れ、日本寺で武運を祈願した折に、頼朝公が手植えなさったものなのだそうです。しかしですね、いろいろ調べてみた結果、この伝承にはひとつ腑に落ちない点があるんですよ。それは、いったいこの蘇鉄はどこから来たものなのかということ。そもそも、日本国内における蘇鉄の自生地は九州南部南西諸島に限られており、いくら気候が温暖だとはいえ、安房には自生しておりません。また、今でこそ南国ムードを醸し出す植木として南関東や東海でも広く植栽されていますが、こうした蘇鉄の植栽文化は、頼朝の時代から約400年後の安土桃山時代に始められたと言われています。果たして頼朝公は、蘇鉄を植えるとなんかいいということをどこで知り、その苗をどこから入手したのでしょうか。教えてくれ佐殿、教えてくれ小四郎!

③大仏広場

大仏様については先述した通りなので省略。そうそう、この大仏広場には境内唯一のトイレがあります。日本寺参拝は長大なルートを歩くことになりますので、行きの車中でコーヒーやエナジードリンクをガバガバ飲んで来た人は、まずはここで用を足しておくことをお勧めします。

④羅漢エリア

羅漢とはなんでしょうか。正しくは阿羅漢と言い、阿を省略した言い方が羅漢なのだそうですが、これは仏教用語でして、端的に申せば、煩悩を断ち切って悟りの境地に至った者のことを言うそうです。つまり修行者が到達し得る最高位に相当します。そうした羅漢たちの像が無数に安置されているのが、この羅漢エリアです。羅漢像が1500体ほど並んでおり、それぞれの表情が違うので、自分の琴線に触れた羅漢を見つけて手を合わせ、心の中で何か問いかけてみるのもアリでしょう。この羅漢像は、例の日本寺大仏を彫った江戸中期の上総の名工・大野甚五郎が、安永8年(1779年)〜寛政10年(1798年)の20年を費やして仕上げていったものなのだそうです。

⑤山頂エリア

さて、日本寺参拝もいよいよクライマックスです。参道を登り詰めた先に待っているのは何なのでしょうか。実は、この山頂エリアは更に3つのスポットに細分化できます。

十州一覧台

鋸山の主稜線上には2つの展望台が設けられており、この十州一覧台はそのうちのひとつです。古くは、「広く見渡せる」ということを、視野に収まる「令制国りょうせいこく」の数で表現するのが世の常だったようで、例えば世間には六国見山(鎌倉)、関八州見晴台(奥武蔵)、十国峠(伊豆)などがありますが、この十州一覧台もそうした意味合いで付けられた名称です。では具体的に、ここから一覧できる「十州」とは何でしょうか。まずはこの鋸山の両足下に広がる①安房上総かずさ、そして上総の向こうの下総しもうさ、海の向こうの相模さがみ武蔵むさし。さらに、筑波山が見えれば常陸ひたち、那須連峰が見えれば下野しもつけ、赤城山が見えれば上野こうずけ、天城山脈が見えれば伊豆いず、そして富士山が見えれば駿河するが。これらが十州の顔ぶれです。

百尺観音

山頂エリアにあるのは展望台だけではありません。石切場の跡地には、このような観音様の彫刻が見られます。名付けて百尺観音一尺は1mの33分の10(≒0.303m)と定義づけられているので、百尺は約30.3mということになります。本当にそれくらいの長さなのか、誇張なのかは分かりませんが、実際見てみるとそれなりにスケールがあり、圧倒されます。この百尺観音が彫られたのは、奈良時代でも江戸時代でもなく、実は昭和になってからのこと。公式サイトによると、世界戦争戦死病没殉難者供養と交通犠牲者供養のために、昭和35年(1960年)から昭和41年(1966年)にかけての6年を費やして彫られたそうです。

山頂展望台

先に述べた通り、御本尊と大仏様を拝めば最低限の日本寺参拝は成り立つのかもしれませんが、やはり、ここへ来ずして日本寺を語ることはできないでしょう。切り立った岩壁は、かつてこの山域で石切が盛んに行われていたことを物語っており、こうした環境があのような大仏様を生み出したのだということをリアルに認識することができます。また、周囲に山並みが続き、眼下には海が横たわっているという風景は、この場所が世の賑わいから隔絶されているようにも感じられ、こんな場所を行基さんよく見つけたな、と驚かされます。それだけ日本中の土地土地をくまなく歩き、よく観察していたのでしょう。そんな感じで、自分の歴史認識をアップデートさせてくれたような気がしました。

■総括

というわけで乾坤山日本寺を巡ってきたわけなんですが、こうして調べてまとめてみると、この寺院には非常に様々な時代の建造物が存在しているのだということが分かりました。奈良時代のもの、江戸時代のもの、昭和時代のもの、などなど。それらの集合体が、いまある姿なんですね。そうやって各時代の人たちが大切にしてきたものを、私たちも大切にして、次の世代へ伝えていきたいものです。

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